せいばい
本文約3,800字 ・ 読了時間 約8分
あらすじ(AIが作成しました)
徳川時代の会津藩における死刑制度について、その種類や執行方法を綴る。牢内打首、獄門、成敗、磔刑、火刑といった各刑罰の手順や、刑場での所作、領主や藩士が参加する試し斬りの実態などを詳細に記述する。また、エリザベス朝イギリスの事例との比較を交えながら、会津藩が幕府の允許を待たずに磔刑を行える特権を有していた歴史的経緯と、その封建的な本質を論じる。
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徳川時代の司法権は各藩がもっている。――したがって刑法にも、藩ごとの掟がある。だが、死刑だけは、幕府のゆるしがないと執行できなかった。その死刑にも階級があった。会津藩の掟でみると、いちばん軽い死刑は「牢内打首」とよばれた。牢内の刑場で首を斬る。庶民には見せないのである。エリザベス朝のイギリスでも、ロンドン塔の中庭で首を斬られるのは、死罪にたいする軽い扱いであった。ロンドン塔の死罪で一ばん軽いのは絞殺であったが、徳川時代には、絞刑はない。そのかわり一刀で、ばさりと斬る。ロンドン塔の打首は斧でするのである。エリザベス女王の寵臣エセックス伯爵が彼女自身の判決で処刑されたとき、発止と打ちおろされた首斬人の斧は、三度めにようやく首をきり落すことができたとつたえられる。
「牢内打首」より一段重い死刑は、牢内打首と同じ段取りで打った首だけをさらに梟首するもので、「獄門」とよばれるのがそれであった。多くの藩では竹三本を三股にむすんで、その股に首をはさんだものだが、会津藩では五寸角ほどの材木を高さ六尺ほどに二本建て、そのうえに三尺ほどの横木に鉄釘をうったのに首をさして曝した。この獄門よりもひとつ重いのが「成敗」であった。
成敗は牢内仕置場で執行される死刑の最も重いもので、刑場には三角形の「土壇」を築く。罪人を裸にして右腋を土壇に当て、右手は土壇に立てられた竹に繩でしばりつけ、左手は助手がひっぱっている。そして正面から、罪人の左肩から右乳へかけて斜に、「袈裟切り」をする。これがすむと別の土壇に据えて首を刎ねる。ついでその首を土壇に埋め、額だけ露出させ、二人の刑手が板の両端をもって首の頭上を抑えている。その露出した額を槍で三カ所突いて、首を洗って獄門にかける。成敗か単なる獄門かは、額の槍きずでわかるのである。