TRENDIA CLASSIC

湖畔手記

葛西善藏

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たうとうこゝまで逃げて來たと云ふ譯だが――それは實際悲鳴を揚げながら――の氣持だつた。がさて、これから一體どうなるだらう、どうするつもりなんだらうと、旅館の二階の椅子から、陰欝な色の湖面を眺めやつて、毎日幾度となく自問自答の溜息をついた。海を拔くこと五千八十八尺の高處、俗塵を超脱したる幽邃の境、靈泉湧出して云々――と書き出してある日光湯本温泉誌と云ふのを、所在ないまゝに繰りひろげて讀んで見ても、自分の氣持は更にその境に馴染んで來なかつた。よくもこゝまで上つて來たものではある、が今度はどうして下れるか、自分の蟇口は來る途中でもう空になつてゐた。どこに拾圓の金を頼んでやれる宛はないのである。心細さの餘り、自分はおゝ妻よ! と、郷里の妻のことを思ひ浮べて、幾度か胸の中に叫んだ。でこの手記は、大體妻へ宛てゝ書くつもりだが、が特に何かの理由を考へ出したと云ふ譯では無論ないのだ。昨日――九月九日のある東京新聞の栃木版に、生ける屍の船長夫妻と云ふ見出しで、船の衝突で多數の人命を失つた責任感から、夫妻で家出して、鹿沼町の黒川と云ふ川に深夜投身自殺を計つたが、未遂で搜し出されたと云ふ記事を自分は寢床の中で讀んだが、町の人々の間にはそれが狂言自殺だなぞと云ふ非難もあると書かれてゐるが、そんな年配の夫婦が狂言自殺?――そんなことがあり得るだらうか。そしてまた、その生ける屍と云ふ文句が、自分の聯想を更に暗い方に引いて行つた。

「生ける屍か……」と、自分はふと口の中で呟いた。

白根山一帶を蔽うて湧き立つ入道雲の群れは、動くともなく、こちらを壓しるやうに寄せ來つつある。そして湖面は死のやうに憂欝だ。自分の胸は弱い。そして痛む。人、境、倶不奪――なつかしき、遠い郷里の老妻よ! 自分は今ほんたうに泣けさうな氣持だ。山も、湖水も、樹木も、白い雲も、薄緑の空も、さうだ、彼等は無關心過ぎる!

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