哀しき父
本文約6,300字 ・ 読了時間 約13分
あらすじ(AIが作成しました)
場末の湿った下宿で暮らす孤独な作家は、激しい動悸や不眠、肺の病に苦しみながらも、遠方に住む我が子への切ない情愛を抱え続けている。都会の生活や貧困の中で自己を封じ、創作の孤独と死の気配が漂う日常を送りながら、自らを哀しき父と呼ぶ。子供を思って悶々と過ごす日々のさなか、体調を崩し床に臥せることになるが、窓辺に置いた金魚を眺め、静かに詩作を続けようとする姿を描く。
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一
彼はまたいつとなくだん/\と場末へ追ひ込まれてゐた。
四月の末であつた。空にはもや/\と靄のやうな雲がつまつて、日光がチカ/\櫻の青葉に降りそゝいで、雀の子がヂユク/\啼きくさつてゐた。どこかで朝から晩まで地形ならしのヤートコセが始まつてゐた……。
彼は疲れて、青い顏をして、眼色は病んだ獸のやうに鈍く光つてゐる。不眠の夜が續く。ぢつとしてゐても動悸がひどく感じられて鎭めようとすると、尚ほ襲はれたやうに激しくなつて行くのであつた。
今度の下宿は、小官吏の後家さんでもあらうと思はれる四十五六の上さんが、ゐなか者の女中相手につましくやつてゐるのであつた。樹木の多い場末の、軒の低い平家建の薄暗くじめ/\した小さな家であつた。彼の所有物と云つては、夜具と、机と、何にもはひつてない桐の小箪笥だけである。桐の小箪笥だけが、彼の永い貧乏な生活の間に賣殘された、たつたひとつの哀しい思ひ出の物なのであつた。
彼は剥げた一閑張の小机を、竹垣ごしに狹い通りに向いた窓際に据ゑた。その低い、朽つて白く黴の生えた窓庇とすれ/\に、育ちのわるい梧桐がひよろ/\と植つてゐる。そして黒い毛蟲がひとつ、毎日その幹をはひ下りたり、まだ延び切らない葉裏を歩いたりしてゐるのであつたが、孤獨な引込み勝な彼はいつかその毛蟲に注意させられるやうになつてゐた。そして常にこまかい物事に對しても、ある宿命的な暗示をおもふことに慣らされて居る彼には、その毛蟲の動靜で自然と天候の變化が豫想されるやうにも思はれて行くのであつた。
孤獨な彼の生活はどこへ行つても變りなく、淋しく、なやましくあつた。そしてまた彼はひとりの哀しき父なのであつた。哀しき父――彼は斯う自分を呼んでゐる。