錢形平次捕物控
本文約15,000字 ・ 読了時間 約31分
あらすじ(AIが作成しました)
両国橋の袂で雪駄直しをする若者・巳之松は、客の手紙を取り次ぐ裏の顔を持つ。この男を追う岡っ引きの銭形平次と子分の八五郎は、事件の背後にある切支丹の影と、巳之松と関わりを持つ母娘巡禮の存在に気づく。平次は、巳之松を捕らえようと奔走する中で、母娘を救うために他者の手柄と引き換えに彼らを守り、江戸から遠ざけることで事件に一つの区切りをつける。時代に翻弄される人々の姿と、平次の情けを描く物語である。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
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一
「八、あれに氣が付いたか」
兩國橋の夕景、東から渡りかけて平次はピタリと足を停めました。
陽が落ちると春の夕風が身に沁みて、四方の景色も何んとなく寒々となりますが、橋の上の往來は次第に繁くなつて、平次と八五郎が、欄干に凭れて水肌を見入つてゐるのを、うさんな眼で見る人が多くなりました。
「雪駄直しでせう。先刻から三足目の註文ですが、良い働きですね」
「お前も一つやつて見る氣になつたか」
「有難いことに、これでも檀那寺に人別はありますよ」
「雪駄直しぢや不足だといふのか、罰の當つた野郎だ。見て居ると、雪駄直しの合間々々に、往來の人から手紙を受取つたり、懷から手紙を出したりしてゐるだらう、雪駄直しの片手間に、使ひ屋にも頼めねえ文を預かつて居るんだね、細くねえ商法ぢやないか」
兩國の橋の袂の雪駄直しが、お店者や水茶屋の姐さん連の文の受け渡しをして、飛んだ甘い汁を吸つてゐようとは、錢形平次も思ひ及ばなかつたのです。
雪駄直しといふのは、編笠を冠つた爺々むさい男が多いのですが、これは若くて小意氣で、何かの彈みに顏を擧げるのを見ると、編笠の下の顏は二十七八、苦み走つた良い男でさへあります。
「聲をかけて見ませうか」
八五郎は相變らず好奇心でハチ切れさうです。
「待ちなよ、脅かすと鳥が立つ」
「へエ」
「錢の外に膝の下に、眞鍮の花形になつた變なものを持つて居るだらう」
「もう暗くなるから、店を仕舞ふに違えねえ、お前はそつと後をつけて行つて見るが宜い」
「やつて見ませう」
橋の袂に隱れて、雪駄直しが店を片付けるのを待つて、八五郎がその後を跟けて行つたことは言ふ迄もありません。
その頃になるともう、橋の上にも橋の外にも、さすがに陣立ひろげて居る者もなく、謠を歌つてゐた浪人者も、齒磨を賣つて居た居合拔きも、法螺の貝を吹き立てゝゐた修驗者も姿を隱して、橋は暮色のうちに、靜かに暮れて行きます。
その晩亥刻(十時)少し前、八五郎は世にも哀れな姿で、明神下の平次の家へ飛込んで來ました。
「わツ、面目次第もねえが――親分」
などと濡れ鼠になつた姿を上り框に這ひ上つて少し醉つてゐるやうでもあります。