道は次第に狭し
本文約5,100字 ・ 読了時間 約11分
あらすじ(AIが作成しました)
料理人である著者は、味覚に対する心構えや、相手の嗜好を見極める料理の重要性を論じる。食の道においては、味の鈍感な者への対応や、自称通人に対する工夫、そして自らの味覚を磨き上げる努力が不可欠であると説く。長年の経験を通じ、料理法や味に対する考え方が年齢と共に変化することにも触れ、終わりなき美味探求の姿勢を綴る。
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先日、ある雑誌記者来訪、「ものを美味く食うにはどうすればいいか」とたずねた。
世の中には、ずいぶん無造作に愚問を発する輩があるものだ。思うにこういうふうなものの聞き方をする連中は、その実、料理など心から聞きたいわけではないに決っている。お役目で人の話を聞こうとするが、もとより真から聞きたいのではない。そこで私は言下に「空腹にするのが一番だ」と答えてみた。その男は、しばし二の句が継げずにいた。
また、これも似たような話であるが、ある時、一流料理人を求めた際、メンタルテストをして、君の好きなものはなにか? と、質問してみた。すると、ただ漠然と「さかなが好きです」と答えた。
専門の一流料理職人が、こういうことでは困る。得てして料理職人にはこんなのが多い。この男は上方の人間だから、さかなというのはたいを指して言ったものだろう。たしかに関西のさかなは美味い。が、表現に教養がなさすぎる。子どもに向かって、「坊やどこへ行くの」と聞くと、「アッチ」と答えるのと同じである。
もちろん、こんなのは落第させてしまったが、こういう男は自分がなにが好きであるかさえ正直に言えないのみならず、実のところ、美食にまるっきり精通していないのである。好きなものが、はっきり言えないのは嘆かわしい。つまり、味覚に対して無神経であるか、もしくは初めから味覚に対して鈍感なのだ。味の分らないものが、味に興味を持っていないのは当然であって、いくら山海の美味を与えてみたところで、仔細には美味いとも不味いとも感じないだろう。こういう輩には腹を空かせば美味いよと、答えるほかはないのである。
ついでだから余計なことを言うが、味が分らないということは名誉でも不名誉でもない。生まれつきであってみれば、鼻が高いとか低いとかいうことと同じ、別に恥ずかしいことでもない。ただ、そういう人は、美味いものをつくろうとか、料理を覚えようとかするには不向きだ、と言うまでである。杖をなくした老人に似て、人並みの楽しみを減じている気の毒な人だ。