弦斎の鮎
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あらすじ(AIが作成しました)
春から秋にかけて旬を迎える鮎の魅力を語りつつ、食通を自称しながらもその本質を見誤る世の風潮を指摘する。特に『食道楽』の著者村井弦斎があゆのはらわたを抜いて食べることを好む東京人の習性を指摘した点に対し、その食味の欠如を痛烈に批判する。他人の著作の受け売りや知識だけで食を語る食通たちの姿勢を疑問視し、自身の舌で真の味を確かめることの重要性を説く一編。
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毎年のことながら、春から夏、秋と昔からいう年魚の季節となる。
わたしの舌は、あゆを世間で騒ぐほどうまいものだとは思っていないが、なんとなし高貴な魅力があってうれしいものだ。川魚のうちではあゆが有数の美味であること、それに優美な姿であることにもちろん異存はない。なんといっても四月から当分の間、あゆが王座を占める一つの理由は、この季節には、これに匹敵するような気の利いたうまい魚が他にないからであろう。川魚にして生臭くないということも、あゆをして今日の高名をなさしめた第二の理由であろう。あゆの香気なども、今さらいうだけかえってヤボなことであるが、やはり、この点も大いにあずかって力があろう。
あゆにかぎらず、美味の名を取った食べ物について、案外世人がその良否をわきまえず、従ってその本格的な食い方なども心得ていないという場合が多いように思われる。それも美味美食ということにさほど興味や関心を持たぬひとであるなら、とやかくいう筋合ではないが、美食家とか食通とかいわれて、著書など世間に堂々と発表しているひとびとに、それが往々あるのだから、まったく心細い次第だ。
例えば、あゆについていうなら、『食道楽』の著者村井弦斎などのあゆ話にはこんなミスがある。「東京人はきれい好きで贅沢だから、好んであゆのはらわたを除き去ったものを食う」ここが問題なのだ。東京人がきれい好きだからわたを抜いて食うというのは大間違いであり、東京人がきれい好きというのは、この場合、余計なことだ。
要するに、村井弦斎が東京人かどうか知らぬが、彼のあゆ知らずを物語っている。はらわたを除き去ったあゆなどは、ただのあゆの名を冠しているだけのことで、肝心の香気や味を根本的に欠くので、もはや美味魚としてのあゆの名声に価しないものである。