一茶の書
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あらすじ(AIが作成しました)
小林一茶の遺した書について、春屋禅師や池野大雅らの名跡と並ぶ独自の魅力を論じる。その書は装飾を排した心境直写の妙をたたえ、情味において人の心を打つ個性的なものとして評価される。芸術における真情の重要性や技巧の先にある本来の姿について考察し、技術的な巧拙を超えた個性の真実と風韻の価値を説く。昭和六年に執筆されたこの評論は、書家としての作者自身の美学を反映しながら、一茶という存在とその芸術の本質に鋭く迫るものである。
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われと来て遊べや親のない雀
痩蛙まけるな一茶是に有り
一茶自身の運命にも、なにかそうしたところがありはしなかっただろうか。
それはともかくとして、その書であるが、素質的にいって、大徳寺代々のうちでの随一の能書家(これは私の独断であるが)春屋禅師の書、池野大雅の書、良寛和尚の書、茶人元伯、原叟などの書などと共通なところを持っているかのように思われる。
しかし、これらのうちで、一茶の書には、一番に下手物的な装わない心境直写の妙相をたたえているように思う。有欲といい、また、無欲というとも、要するに一茶においては、どうあってもいいのだろう。
一茶の書に今一倍気品があり、そして、同時に気力があったら、どんなに立派であったろうか――などという人も中にはあるようだが、私は一茶の書には、むしろそれがないのが、その真実ではなかろうかとするものである。一茶の書を見ると、第一にその情味において、人の涙をそそるものがある。そこで、どんな気格の高い他の人の書に出会っても、それはそれで少しの引け目を感ぜずに、その内容の個性味を、どこまでもはっきりと押して行っているのである。
申すまでもなく、芸術は要するにその内容である。内容というのは、その個性である。書という芸術も、最後はその真情に発したものでなくてはならない。仮りにそれが真情に発し、そして俗態を斥けて、ものの数ともしないというものであるならば、如何なる書を、いかに学んだとしても、決して模倣に終るようなことはないと思われる。
出るものが故障なく出る。書はそれでいいのである。いわゆる技巧的にも、心理的にも、その灰汁だとか、濁りだとかいうようなものが、きれいに取り除かれたならば、そこに出るものは、必ずその人の一番美しい本来の相でなくてはならない。
一茶の書のあの捨てがたい風味とか、風韻とかいうものも、実はそれに他ならないのである。(昭和六年)
完