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TORENDIA

河井寛次郎近作展の感想

本文約720字 ・ 読了時間 約2分

あらすじ(AIが作成しました)

河井寛次郎の長年にわたる製陶生活を振り返り、その作風が時の経過とともに進歩するどころか退歩していると辛辣に批判する。高島屋での展示会に並ぶ作品に美の探求や生気の欠如を見出し、自身の研鑽を怠り周囲の評価に安住してきた姿勢を厳しく指摘する。さらに、他の著名な作陶家たちも同様の状態にあると糾弾し、陶芸界の現状に対する失望と厳しい評価を綴る論考である。

北大路魯山人

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河井寛次郎氏の製陶もとうとう世の末になってしまった。作陶家として異様に大きく名を成したのは大正八、九年頃のように思うが、その後、今日までには長い製陶生活が続いているわけである。人の良い、職人風の無い、気易く付き合いの出来る彼は、その後継者たちに愛され、一部の新しき愛陶家によって彼の作業は支持され、先ず得意の中に老陶家の一人として、今日に及んだと見て間違いなかろう。

しかるに彼の作陶は聊かも進歩していないのである。いや退歩を続けている。その原因は彼の天分たることに帰せねばならぬことは止むを得ないにしても、彼が何十年間、何の勉強もしなかったことである。甘い連中の護りを受けて安閑といい気になっていたことである。最近高島屋にて催された彼の作品を見て驚くことは、万策尽きて沈黙に等しき出鱈目を遣っていることである。視野を狭くして美の探求を怠りつづけた天罪を見て可なるものがある。この好人物をして晩年を飾らしむることは当人の欣びばかりではなく、後進に何程良い影響を遺すか知れないのである。しかし、このごろのような作品に成って来ては最早駄目である。何の取柄も無くなってしまったからである。往年の彼の人気に比しては、今日彼のファンも無きに等しき状態ではなかろうか。度重なる彼の展示会に生気の消失し尽した観があるのは、彼自身が認めて居るはずである。乾坤一擲今後に処せと言いたい所だが最早駄目である。最初から世間に誤られた人気役者の末路と見るべきである。残念ながら私は彼をここに見捨てねばならぬ。

と言うても、絶望視されている作陶人は寛次郎翁一人ではない。六兵衛父子をはじめ、有名作陶家の総てである。敢えて君一人を見限っているのではない。

(昭和二十七年)

完

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