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「女が髭を持つてゐないやうに、彼は年齡を持つてゐなかつた。」――例によつて三島由紀夫得意のアフォリズムである。『禁色』に出てくる男色家ジャッキーを指して言つてゐるのだが、いつそそつくりそのまま、當の作者に當てはまりさうである。まつたく女に髭がないやうに、三島由紀夫には年齡がない。
もちろん年齡といつても、先天的な――いやつまり、戸籍上のそれぢやない。見た目が小ましやくれてるとか、變に大人つぽいとか、そんな世間話でもない。ぼくの言ふのは、いささか氣障つぽい言ひまはしだが、まあ「美の年輪」とでも言つたものを指すのだ。つまり彼の文學の胎生に關するわけである。
どういふ因縁か知らないが、ぼくは三島由紀夫の作品を、戰爭中から知つてゐる。『花ざかりの森』といふ本がある。彼のごく初期の作品をあつめたものだ。ぼくは偶然それを虎の門へんの小つちやな本屋で見かけて、燈火管制の黒幕のかげで讀んだ。空襲がはじまつて、黄色つぽい硝煙が東京の街路にただよひだしてゐた。終戰の前年の、たしかに暮れ近いころである。この本には短篇小説が五つ載つてゐる。短篇といつても、百ページ近いのもある。今でもおぼえてゐるが、『世々に殘さん』とか『苧莵と瑪耶』などといふ作品は、なかなかの力作であつた。ぼくは讀みだして、とたんに芥川龍之介の再來だと思つた。
もつともこの印象は、すぐ訂正せざるを得なかつた。藍より出でて藍より青いといふだけではなく、明らかに異質のものがあつたからである。龍之介の王朝物は、どうかすると苦勞の跡ばかり目について、しつくりついて行けない場合が多い。擬古文といふものは難かしいものだ。江戸中期に出た一代の才女、荒木田麗女の才筆をもつてしても、その王朝に取材した歴史物語には、措辭上の狂ひが少なくないさうだ。もちろん『花ざかりの森』の諸篇は、擬古文で綴られてゐるわけではない。王朝の文體を現代に生かしたものである。しかしその和文脈はみごとに生きてゐたのみならず、詩情またそれに伴なつて香り高かつた。ぼくは舌をまいた。この早熟な少年のうちに、わが貴族文藝の正統な傳承者を見る思ひがしたからである。