四十年前のエキスカージョン
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あらすじ(AIが作成しました)
古寺めぐりにおける感受能力の限界と、徒歩による見物の重要性を説く。筆者は自身の体験として、大正時代に学生らと参加した奈良での修学旅行を回想する。多忙な見学では印象が薄れる一方、法隆寺から薬師寺までの長い距離を歩いた際には、深い感銘を受けた経験を挙げる。芸術品を十分に味わうためには、限度を超えて詰め込むのではなく、時間をかけてゆっくりと向き合うべきだと論じる。
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このごろは大和の国も電車やバスの交通が大変便利になって来たので、昔に比べると、古寺めぐりはよほど楽になったようである。欲張って回れば一日の内にかなり方々の古い寺々を見ることができるであろう。しかし人間が古い芸術品などに接してその美しさを十分に感受し得る能力は、そう無限にあるものではない。明るいうちに体をその場所へ持って行きさえすれば、どこでも同様に、同じ新鮮な気持ちで味わえるというわけではない。その点は食物の場合も同じであろう。いくらうまいもの屋が並んでいるからといって、それを片端から味わって歩くことはできない。一軒の料理を味わえば、あとはまた空腹になる時まで待たなくては、次の料理を同じように味よく味わうわけには行かない。もちろんそういう能力は人によって差異のあるものではあるが、しかしどれほど人並みはずれた食欲を持つ人でも、その食欲に限度がないわけではない。そうして限度まで味わえば、あとは食ってもうまくはないのである。それと同じで、感受能力の限度を超えてしまえば、たとい体が無比の傑作の前に立ち、眼がその傑作を眺めているにしても、その美しさはいっこうに受用されず、いわゆる「見て見ず」という状態になる。そういう見物は全然むだである。
その点を考えると、一日のうちにあまり方々へ回ることは考えものである。なるべく徒歩を混じえて、ゆっくり時間をかけて、それで見て回れる程度に限る方が、自分の感受能力を活発に働かせるゆえんとなるであろう。