牧野富太郎自叙伝
本文約38,400字 ・ 読了時間 約77分
あらすじ(AIが作成しました)
植物学者の著者が自身の人生観、健康法、そして研究への情熱を綴る一冊。学者は死の間際まで研鑽を続けるべきとの信念を説き、平静な心境と少食、酒煙草を避ける生活で心身の健康を保つ術を述べる。草木を通じて慈悲の心を養い、植物知識が国力を高めると主張する。また、各地の植物方言の蒐集に長年尽力し、民俗文化を映し出す方言の重要性と、それらを後世に残すための全集刊行の必要性を論じる。
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所感
何時までも生きて仕事にいそしまんまた生まれ来ぬこの世なりせば
われらの大先輩に本草学、植物学に精進せられた博物学者の錦翁伊藤圭介先生があった。珍しくも九十九歳の長寿を保たれしはまず例の鮮ない芽出度い事である。しかるに先生の学問上研鑽がこの長寿と道連れにならずに、先生の歿年より遡りておよそ四十年程も前にそれがストップして、その後の先生は単に生きていられただけであった。そうすると先生の研究は直言すれば死の前早くも死んでいるのである。学者はそれで可いのか、私は立ちどころにノーと答える事に躊躇しない。
学者は死ぬる間際まで、すなわち身心が学問に役立つ間は日夜孜々としてその研鑽を続けねばならない義務と責任とがある。畢竟それが学者の真面目で学者の学者たる所以はそこにある。「老」という事は強いて問題にすべきものではなく、活動している間は歳は幾つであろうと敢てそれを念頭に置く必要は無い。足腰が立たなくなり手も眼も衰え来ってために仕事が出来なくなれば、その時こそはじめて「老」が音ずれて真の頽齢境に入るのである。そうなれば全く世に無用な人間となりはて、何時死ぬるも御勝手で何も遠慮することには及ばぬ事となる。
自分は平素上のように考えているので、たとい年は取ってもなるべく仕事の出来る期間の長からん事を祈っている。そして前の伊藤先生の場合を回想すると先生の長寿はこの上も無く芽出度いが、その疾く放棄せられた研究心はその長寿に比べては一向に御芽出度く無い。故に学者としての先生は決して九十九歳では無く、それよりはずっと短くおよそ六十歳位の生命であったと断ずべきだ。自分は無論先生の比類稀れな長寿を祝する事には異存は無いが、しかし一面早くも研鑽心を忘れた先生を弔する事にも敢て臆病では無いのだ。
私の健康法