牧野富太郎自叙伝
本文約55,100字 ・ 読了時間 約111分
あらすじ(AIが作成しました)
高知県佐川町に生まれた牧野富太郎が、植物への情熱に導かれ、独学で知識を深めながら植物学者としての道を歩む半生を綴る。幼くして両親を亡くし祖母に育てられた著者は、植物採集に没頭する少年時代を経て、やがて東京帝国大学で研究を続ける。組織内での不遇や困難を植物への愛で乗り越え、九十歳を超えてなお精気旺盛に研究に打ち込む姿を通じて、植物と共に生きる歓喜と学問に捧げる人生の意義を説く。
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幼年期
土佐の国、高岡郡佐川町、この町は高知から西へ七里隔ったところにあり、その周囲は山で囲まれ、その間にずっと田が連り、春日川という川が流れている。この川の側にあるのが佐川町である。南は山を負った町になり、北は開いた田になっている。人口は五千位の小さい町である。この佐川からは色々な人物が輩出した。現代の人では田中光顕・土方寧・古沢滋(迂郎が元の名)・片岡利和・土居香国・井原昂等の名を挙げる事ができる。古いところは色々の儒者があり、勤王家があった。この佐川町から多くの儒者が出たのは、ここに名教館という儒学つまり漢学を教える学校があり、古くから教育をやっていたためである。佐川には儒者が多く出たので「佐川山分学者あり」と人がよくいったものである。山分とは土地の言葉で山が沢山あるところの意である。
佐川の町は山内家特待の家老――深尾家の領地で、それがこの町の主権者であった。
明治の代になり、文明開化の世になると学校も前とは組織も変わり、後にはそこで科学・文学を教えるようになった。そうなったのが明治五、六年の頃であった。
明治七年にはじめて小学校制がしかれたので名教館は廃され、小学校になった。
佐川の領主――深尾家は主権者だが、その下に多くの家来がいて、これらの武士は町の一部に住み、町の大部分には町人が住んでいた。そして町の外には農家があった。近傍の村の人達は皆この町へ買物にきた。佐川の町には色々の商人がいて商売をしていた。佐川は大変水のよいところなので酒造りに適していたため、数軒の酒屋があった。町の大きさの割には酒家が多かった。
この佐川の町にかく述べる牧野富太郎が生まれた。文久二年四月二十四日呱々の声を挙げたのである。牧野の家は酒造りと雑貨店(小間物屋といっていた。東京の小間物屋とは異なっている)を経営していた。家は町ではかなり旧家で、町の中では上流階級の一軒であった。父は牧野佐平といって、親族つづきの家から牧野家へ養子にきた人である。牧野家家付の娘――久寿は、すなわち私の母である。