TRENDIA CLASSIC

落穂拾い

小山清

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仄聞するところによると、ある老詩人が長い歳月をかけて執筆している日記は嘘の日記だそうである。僕はその話を聞いて、その人の孤独にふれる思いがした。きっと寂しい人に違いない。それでなくて、そんな長いあいだに渡って嘘の日記を書きつづけられるわけがない。僕の書くものなどは、もとよりとるに足りないものではあるが、それでもそれが僕にとって嘘の日記に相当すると云えないこともないであろう。僕は出来れば早く年をとってしまいたい。すこし位腰が曲がったって仕方がない。僕はそのときあるいは鶏の雛を売って生計を立てているかも知れない。けれども年寄というものは必ずしも世の中の不如意を託っているとは限らないものである。僕は自分の越し方をかえりみて、好きだった人のことを言葉すくなに語ろうと思う。そして僕の書いたものが、すこしでも僕というものを代弁してくれるならば、それでいいとしなければなるまい。僕の書いたものが、僕というものをどのように人に伝えるかは、それは僕にもわからない。僕にはどんな生活信条もない。ただ愚図な貧しい心から自分の生れつきをそんなに悲しんではいないだけである。イプセンの「野鴨」という劇に、気の弱い主人公が自分の家庭でフリュートを吹奏する場面があるが、僕なんかも笛でも吹けたらなあと思うことがある。たとえばこんな曲はどうかしら。「ひとりで森へ行きましょう。」とか「わたしの心はあのひとに。」とか。まま母に叱られてまたは恋人からすげなくされて、泣いているような娘のご機嫌をとってやり、その涙をやさしく拭ってやれたなら。

誰かに贈物をするような心で書けたらなあ。

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