日本に於けるクリップン事件
本文約10,300字 ・ 読了時間 約21分
あらすじ(AIが作成しました)
ホーレー・ハーヴィー・クリップンは、妻コーラを殺害し、無線電信を利用して国外逃亡を企てたが、同行していた情婦エセル・ル・ネーヴと共に逮捕される。マゾヒストは妻や情婦を支配的な暴君として崇拝する一方で、内心では彼女らを人形のように扱い、関係に飽きや限界を感じると陰険な手段で排除に至る。本作は、この英国の事件と、同じく歌劇女優の妻を持つ変態性慾者の小栗由次郎の事例を対比させ、歪んだ性癖と隠蔽工作についてを論じる。
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クラフト・エビングによって「マゾヒスト」と名づけられた一種の変態性慾者は、いうまでもなく異性に虐待されることに快感を覚える人々である。従ってそういう男は、――仮りにそれが男であるとして、――女に殺されることを望もうとも、女を殺すことはなさそうに思える。しかしながら、一見奇異ではあるけれども、マゾヒストにして彼の細君または情婦を、殺した実例がないことはない。たとえば英国に於いて一千九百十年の二月一日に、マゾヒストの夫ホーレー・ハーヴィー・クリップンは、彼が渇仰の的であったところの、女優で彼の細君なるコーラを殺した。コーラは舞台名をベル・エルモーアと呼ばれ、すべてのマゾヒストが理想とする、浮気で、わがままで、非常なる贅沢屋で、常に多数の崇拝者を左右に近づけ、女王の如く夫を頤使し、彼に奴隷的奉仕を強いる女であった。その犯罪が行われた正確な時刻は今日もなお明かでないが、前記一千九百十年の二月一日午前一時以後、コーラは所在不明になり、誰も彼女を見た者がない。夫クリップンは人に聞かれると、妻は転地先で病死した旨を答えていた。が、五箇月を経てからスコットランド・ヤードの嗅ぎつける所となり、刑事が彼に説明を求めると、彼は極めて淡白に、「死んだといったのはなんです。実は一月三十一日の晩に夫婦喧嘩をしましてね、それをキッカケに妻は怒って家出をしちまったんですが、多分亜米利加へ行ったんだろうと思うんです。亜米利加は妻の生国で、いい男があったらしいから、きっとその男の所へ行ったんでしょう。アレが死んだといい触らしたのは、そうでもいっておかないでは世間体が悪いものですからね」と、直ちに澱みなく陳述した。そうして刑事をヒルドロップ・クレセント三十九番地の自宅へ案内し、家じゅうを隈なく捜索するに任せた。これで事件は曖昧の裡に葬られ、彼の嫌疑は一往晴れたにもかかわらず、クリップンは何に慌てたか、翌日急にどこかへ姿を晦ましてしまった。それが七月十二日で、同十五日に刑事が再び彼の留守宅を捜索したところ、石炭を貯蔵してある地下室の床の煉瓦の下から、首と手足のない一個の人間の胴であろうと思われる肉塊を発見した。コーラが見えなくなってから、実に五箇月半の後であった。