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TORENDIA

戦後文章論

本文約7,700字 ・ 読了時間 約16分

あらすじ(AIが作成しました)

言葉が生きている文章の稀少性を指摘し、漫画や新聞の碁将棋欄などの文章に息づく職人的な技術や軽やかさを論じる。真実を追求し、既存の型や習い覚えた言葉にとらわれず、現代に生きるイノチを込めた表現の重要性を説く。さらに、安岡章太郎の新鮮な筆致に触れつつ、文章が内容を限定せず、物語の広がりを持つための要件として、軽やかさと本質を正確に捉える骨法を提示する。

坂口安吾

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言葉は生きているものだ。しかし、生きている文章はめったにありません。ふだん話をするときの言葉で文章を書いても、それだけで文章が生きてくるワケには参らないが、話す言葉の方に生きた血が通い易いのは当然でしょう。会話にも話術というものがあるのだから、文章にも話術が必要なのは当り前。話をするように書いただけですむ筈はありません。

「ギョッ」という流行語のモトはフクチャン漫画だろう。横山隆一の発明品である。彼は漫画の中へギョッだの、モジモジだの、ソワソワだのという言葉を絵と同格にとりいれるという珍法を編みだした。

モジモジ、ギョッ、ソワソワを絵だけで表現するのはそうメンドウではないだろうが、言葉を加えた方が絵だけで表現するよりも、はるかに珍な効果をあげる。二科会員隆一先生はそれを見破りあそばされた。凡庸な眼力ではなかろう。

しかし、漫画というものは、絵よりも文学にちかいものですよ。それも少しの差ではなくて、絵が三分、文学が七分、否、一分と九分ぐらいに全然文学の方に近いだろうと私は思っています。

紙芝居は一目リョウゼン、絵は従で、物語の方が主ですが、それにくらべると、漫画の方は絵が多くて言葉の使用は甚だ少い。けれども、その多少によって絵か文学かが定まるわけではなくて、漫画の発想も構成もほぼ文学そのものだという意味です。絵で読むコントであり、落語であります。

ですから漫画家は文章がうまいな。近藤日出造や清水崑の人物会見記は、漫画も巧いが、文章の巧さもそれ以下ではない。

本職の絵カキはデッサンということを云う。文章にはそれにちょうど当てはまるものがないようだが、もしも文章に基本的な骨法があるとすれば、物の本質を正確につかんで、ムダなく表現することだろう。彼らの会見記はその骨法にかなうこと甚大で、それも最短距離で敵の本質をほぼ狂いなく掴んでいるし、さらに文章の綾を加えて仕上げるのが巧妙だ。綾にもムダが少い。漫画というものが、本来ムダがないせいかね。

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