童貞
本文約13,500字 ・ 読了時間 約28分
あらすじ(AIが作成しました)
肺病を患い死を待つ昂作は、街中で令嬢瑠璃子から乳母車の運搬を頼まれる。その直後、瑠璃子は刑事たちの捜査網を掻い潜り変装して逃亡する犯人であったと判明する。やがて工場の跡地に隠れていた昂作の元へ瑠璃子が再び現れ、彼女は口封じと逃走の協力を画策して接近する。彼女から宝石を渡され誘惑される昂作だったが、突如体調を崩した瑠璃子が立ち去った後、彼は独り空虚の中で取り残される。
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「俺はここで死ぬのかな……」
そう思いつつ昂作はヒョロヒョロと立ち止まった。眼の前の電柱に片手を支えると、その掌に、照りつけた太陽の熱がピリピリと泌み込んだ。
彼は今にも倒れそうに咳き入りつつ、地面に映る自分の影法師を見た。……蓬々と延びた髪の毛……無性ヒゲ……ボロボロの浴衣……結び目をブラ下げた縄の帯……瘠せ枯れた腕……灰色のホコリにまみれた素跣足……そんなものの黒い影が、一寸法師のように、眩しい地面に這いついていた。
その足下を見詰めながら彼は今一度……
「俺はここで死ぬのかな」
と思いつつジッと眼を閉じた。その刹那に彼は、彼を載せて回転する大地の巨大さをシミジミと感じた。そうしてその大地の涯の、遠く遠くの青空に、いくつかの白い、四角い大文字が浮かみ顕われて、次から次へと行列を作りながら、地平線の下へ落ち込んで行くのを凝視した。
……天才的ピアニスト……
……童貞……
……肺病……
……乞食……
……死……
それは彼自身だけが知っている彼自身の運命の標示であった。生まれ付きの気弱さから、音楽以外の何ものも知らずに死んで行きたいと願った彼の全生涯の象徴であった。
「自分の弱い肉体を亡ぼすものは異性でなければならぬ。結婚でなければならぬ……自分の弱い魂を生かしてくれるものは音楽よりほかにあり得ないのだ」……と信じ切って固く眼を閉じ、耳を塞いで来た彼……そうして自分の病気を見棄てた医師、親同胞、友達、恩師、若い男女のファンたち、社会の人々のすべてからコッソリと逃げ出して、タッタ一人で大地に帰るべく姿を晦ましてしまった彼の唯一の誇り……世にも尊い……世にもみじめな童貞の誇り……それを思い出すたんびに彼の瞼の内側はポーッと熱くなるのであった。……今もそうであった……。
「……ネエ……チョイト……」
という艶めかしい声を、耳のすぐ傍で聞いたように思ったので、彼はハッとして眼を見開いた。うるんだ瞼を片手でコスリまわして、暗くなりかけた意識を取り返しつつ、オズオズとそこいらを見まわした。