本文へ移動
TORENDIA

忠義

本文約13,000字 ・ 読了時間 約27分

あらすじ(AIが作成しました)

神経衰弱により精神を病んだ板倉修理は、発作時の言動から家中の危惧の的となる。家老の前島林右衛門は、板倉家の改易を恐れ、主を隠居させ一族から養子を迎える策を講じる。一方、主への情愛が深い田中宇左衛門は登城の禁足を命じられるが、主の行動を制しきれず、結果として殿中で悲劇的な刃傷沙汰が引き起こされる。本作は、主君への忠義と家名の存続という二律背反の狭間で苦悩する臣下たちの姿を描く。

芥川龍之介

🎧 まだ音声版はありません

リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 16

一 前島林右衛門

板倉修理は、病後の疲労が稍恢復すると同時に、はげしい神経衰弱に襲われた。――

肩がはる。頭痛がする。日頃好んでする書見にさえ、身がはいらない。廊下を通る人の足音とか、家中の者の話声とかが聞えただけで、すぐ注意が擾されてしまう。それがだんだん嵩じて来ると、今度は極些細な刺戟からも、絶えず神経を虐まれるような姿になった。

第一、莨盆の蒔絵などが、黒地に金の唐草を這わせていると、その細い蔓や葉がどうも気になって仕方がない。そのほか象牙の箸とか、青銅の火箸とか云う先の尖った物を見ても、やはり不安になって来る。しまいには、畳の縁の交叉した角や、天井の四隅までが、丁度刃物を見つめている時のような切ない神経の緊張を、感じさせるようになった。

修理は、止むを得ず、毎日陰気な顔をして、じっと居間にいすくまっていた。何をどうするのも苦しい。出来る事なら、このまま存在の意識もなくなしてしまいたいと思う事が、度々ある。が、それは、ささくれた神経の方で、許さない。彼は、蟻地獄に落ちた蟻のような、いら立たしい心で、彼の周囲を見まわした。しかも、そこにあるのは、彼の心もちに何の理解もない、徒に万一を惧れている「譜代の臣」ばかりである。「己は苦しんでいる。が、誰も己の苦しみを察してくれるものがない。」――そう思う事が、既に彼には一倍の苦痛であった。

修理の神経衰弱は、この周囲の無理解のために、一層昂進の度を早めたらしい。彼は、事毎に興奮した。隣屋敷まで聞えそうな声で、わめき立てた事も一再ではない。刀架の刀に手のかかった事も、度々ある。そう云う時の彼はほとんど誰の眼にも、別人のようになってしまう。ふだん黄いろく肉の落ちた顔が、どこと云う事なく痙攣して眼の色まで妙に殺気立って来る。そうして、発作が甚しくなると、必ず左右の鬢の毛を、ふるえる両手で、かきむしり始める。――近習の者は、皆この鬢をむしるのを、彼の逆上した索引にした。そう云う時には、互に警め合って、誰も彼の側へ近づくものがない。

芥川龍之介の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本