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TORENDIA

神楽阪の半襟

本文約4,900字 ・ 読了時間 約10分

あらすじ(AIが作成しました)

病後の夫と暮らすお里は、家計の窮乏に悩みつつも夫婦の絆を確かめ合っている。ある寒い冬の夕暮れ、二人は郊外から神楽阪へ出かける。通りがかりの店で夫の新しい下駄を買う際、お里は安価な半襟に心を奪われるが、高価な品を勧められ一度は諦める。夫がインキを買いに離れた隙に、彼が内緒で半襟を買ってくると期待したお里は、幸福な予感に包まれる。しかし夫が戻ってもそれはなく、ささやかな希望は失望へと変わる。

水野仙子

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🎧 神楽阪の半襟 / 朗読音声: VOICEVOX:青山龍星

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貧といふものほど二人の心を荒くするものはなかつた。

『今日はお精進かい?』とでも、箸を取りかけながら夫がいはうものなら、お里はそれが十分不足を意味してるのではないと知りながら、

『だつて今月の末が怖いぢやありませんか。』と、忽ち怖い顏になつて聲を荒だてる。これだけ經濟を爲し得たといふ消極的な滿足の傍、夫に對してすまないやうな氣の毒のやうな、自分にしても張合のない食卓なので、恰も急所をつゝかれたやうにおなかの虫が首を曲げるのである。

『何もそんなに聲を尖らせなくたつていゝぢやないか。』と、夫の顏も引き緊つて來る。そしてもたれ合つてゐた愛情が、てんでに自分の持場にかへつて固くなつてしまふやうなことがまゝあつた。

貧といふものほどまた二人の間を親密にするものはなかつた。恰もそれが愛情に注ぐ油ででもあるかのやうに。

『寒くなつたねえ。もう電車に乘つてもコートを着てない人は一人もゐないねえ。さつちやんもどうかして是非一つ作らなけりやあ……』と、夫は改札口を出るといきなりつめたく咽喉を刺す空氣を怖れるやうに、外套の袖で鼻のあたりをおさへながら言つた。

『寒いだらう?』

『いゝえ。』と、お里は齒の根の震へさうなのを噛みしめて、肱を張つて兩袖を胸の前にかき合せながら、『コートなんか無くたつて過せるわ。あれはそんなに暖いたしにはならないんだから。』と、自分で自分に殊勝な心がけを言ひ含めるやうに言つた。そして我ながらしほらしい氣分をめでるやうに、涙ぐましくなつたのを紛すやうに言葉を重ねて、『あなたは? 寒かあない?』と、病後の夫の血の氣の少い顏を下から覘き込んだ。

それはある日、十一月も僅に一二日を後に殘してゐる頃であつた。どうかかうかその月費したものを償ふだけの金が手に入ると、二人は急に開放されたやうな心持になつて、藥代としたものだけを蟇口の小口に分けて、日の影のない曇つた寒い日なのにも拘らず、三時といふ半端な時間なのにも躊躇しないで、郊外の家から久しぶりで甲武線の電車に乘つたのであつた。山が欠けたまゝ四五日我慢して履いてゐた夫の駒下駄を買ふのが、樂しい第一の目的であつた。

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