ダス・ゲマイネ
本文約21,600字 ・ 読了時間 約44分
あらすじ(AIが作成しました)
大学生の主人公は、失恋の傷を癒やしに上野公園の甘酒屋へ通う中で、奇妙な風貌の男・馬場と知り合う。馬場は、自身の才能や芸術への持論を饒舌に語り、無表情な画家・佐竹を連れて現れるなど、主人公を翻弄する。恋をした女性への未練や自意識の葛藤を抱える主人公は、馬場らの言動に触れ、自身の輪郭を見失うような感覚に陥り、雨の街をあてもなく駆け出す。この作品は、閉塞感の中で生きる若者たちの狂おしい青春の日々を描く。
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一 幻燈
當時、私には一日一日が晩年であつた。
戀をしたのだ。そんなことは、全くはじめてであつた。それより以前には、私の左の横顏だけを見せつけ、私のをとこを賣らうとあせり、相手が一分間でもためらつたが最後、たちまち私はきりきり舞ひをはじめて、疾風のごとく逃げ失せる。けれども私は、そのころすべてにだらしなくなつてゐて、ほとんど私の身にくつついてしまつたかのやうにも思はれてゐたその賢明な、怪我の少い身構への法をさへ持ち堪へることができず、謂はば手放しで、節度のない戀をした。好きなのだから仕樣がないといふ嗄れた呟きが、私の思想の全部であつた。二十五歳。私はいま生れた。生きてゐる。生き、切る。私はほんたうだ。好きなのだから仕樣がない。しかしながら私は、はじめから歡迎されなかつたやうである。無理心中といふ古くさい概念を、そろそろとからだで了解しかけて來た矢先、私は手ひどくはねつけられ、さうしてそれつきりであつた。相手はどこかへ消えうせたのである。
友人たちは私を呼ぶのに佐野次郎左衞門、もしくは佐野次郎といふ昔のひとの名でもつてした。
「さのじろ。――でも、よかつた。そんな工合ひの名前のおかげで、おめえの恰好もどうやらついて來たぢやないか。ふられても恰好がつくなんてのは、てんからひとに甘つたれている證據らしいが、――ま、落ちつく。」
馬場がさう言つたのを私は忘れない。そのくせ、私を佐野次郎なぞと呼びはじめたのは、たしかに馬場なのである。私は馬場と上野公園内の甘酒屋で知り合つた。清水寺のすぐちかくに赤い毛氈を敷いた縁臺を二つならべて置いてある小さな甘酒屋で知り合つた。