『土』に就て
本文約4,200字 ・ 読了時間 約9分
あらすじ(AIが作成しました)
長塚節の長編小説『土』は、茨城県の農村を舞台に、貧しく過酷な生活を送る百姓たちの日常を克明に描き出す。本書は、方言や地域特有の自然風景を極めて精緻に描写し、獣類に近い生活を営む人々の姿をありのままに捉える。物語は幸福な刺激や安らぎを一切与えず、読者にただ苦痛と圧迫感を与える。夏目漱石は、この悲惨な現実を知ることが、若い世代の人格形成や人生観の構築に不可欠な糧となると説き、その徹底した写実の姿勢を評価して本作の序文を綴る。
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「土」が「東京朝日」に連載されたのは一昨年の事である。そうして其責任者は余であった。所が不幸にも余は「土」の完結を見ないうちに病気に罹って、新聞を手にする自由を失ったぎり、又「土」の作者を思い出す機会を有たなかった。
当初五六十回の予定であった「土」は、同時に意外の長篇として発達していた。途中で話の緒口を忘れた余は、再びそれを取り上げて、矢鱈な区切から改めて読み出す勇気を鼓舞しにくかったので、つい夫限に打ち遣ったようなものの、腹のなかでは私かに作者の根気と精力に驚ろいていた。「土」は何でも百五六十回に至って漸く結末に達したのである。
冷淡な世間と多忙な余は其後久しく「土」の事を忘れていた。所がある時此間亡くなった池辺君に会って偶然話頭が小説に及んだ折、池辺君は何故「土」は出版にならないのだろうと云って、大分長塚君の作を褒めていた。池辺君は其当時「朝日」の主筆だったので「土」は始から仕舞迄眼を通したのである。其上池辺君は自分で文学を知らないと云いながら、其実摯実な批評眼をもって「土」を根気よく読み通したのである。余は出版界の不景気のために「土」の単行本が出る時機がまだ来ないのだろうと答えて置いた。其時心のうちでは、随分「土」に比べると詰らないものも公けにされる今日だから、出来るなら何時か書物に纏めて置いたら作者の為に好かろうと思ったが、不親切な余は其日が過ぎると、又「土」の事を丸で忘れて仕舞った。