音楽の民族性と諷刺
本文約3,400字 ・ 読了時間 約7分
あらすじ(AIが作成しました)
新響の演奏したチャイコフスキーの「悲愴交響楽」から音楽の民族性と芸術的生命を論じ、続いてソヴェトの諷刺小説「黄金の仔牛」を取り上げる。山師のオスタップ・ベンデルが金を得ようと奔走する物語を通じ、ゴーゴリの古典的な諷刺と、本作の快活で鋭い批判精神が宿る「上からの笑い」を比較する。芸術における民族的特質が歴史の中でどのように発展し、新しい表現へと昇華されるのかについて考察を綴る。
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この春新響の演奏したチャイコフスキーの「悲愴交響楽」は、今も心のなかに或る感銘をのこしている。一度ならず聴いているこの交響楽から、あの晩、特別新鮮に深い感動を与えられたのはおそらく私一人ではなかったろうと思う。
十九世紀のあの時代のロシア、そして、そこを生きたチャイコフスキーが、音楽そのものの力で語り、描き訴えている生命の色彩の生々しい古典性が、見事に流露された。非常に面白く思われた。あの作品は、とかくチャイコフスキーのスラブ的なものというものに足をとられて演奏されることが多く、その結果はかえって作品の生命感を弱めたり甘くしたりする場合が多い。これまでは、どことなくそんな傾きの伴った「悲愴」をよく聴いたような気がする。
先頃の新響の「悲愴」は、そういう意味での観念でかたちづくったスラブ的なものにこだわらず、音をつかんで音の息づいている生命の流れに従っていて、あれだけ音楽として独特の美を発揮させたと思える。チャイコフスキーの生粋な芸術家としての創作の力をも感銘させられた。民族のさまざまな特質やその特質を更に個性のニュアンスで音楽にうちこめている作品の再現としての演奏が、純粋に音の領域から入ってその精髄にふれてゆくことも、いろいろと考えさせて感興ふかかった。