のらもの
本文約14,900字 ・ 読了時間 約30分
あらすじ(AIが作成しました)
銀座のカフヱで働くことを決意した晴代は、不安定な生活を送る木山との四年にわたる結婚生活に限界を感じていた。木山の金の使い道や放蕩に心を痛めつつも、ささやかな幸せを願う晴代は葛藤を繰り返す。ある日、実家に頼るほど困窮した晴代は、木山の度重なる裏切りを知り、別れを決断する。父の助けを借りて荷物を運び出した晴代は、二人の生活の跡を後にし、やりきれない思いを抱えながら過去との決別に向き合う。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
💰 この本を応援する(投げ銭)
一
「月魄」といふ関西の酒造家の出してゐるカフヱの入口へ来た時、晴代は今更らさうした慣れない職業戦線に立つことに、ちよつと気怯れがした。その頃銀座には関西の思ひ切つて悪どい趣味の大規模のカフヱが幾つも進出してゐた。女給の中にはスタア級の映画女優にも劣らない花形女給も輩出してゐて、雑誌や新聞の娯楽面を賑はしてゐた。世界大戦後の好景気の余波と震災後の復興気分とが、暫し時代相応の享楽世界を醸し出してゐたが、晴代が銀座で働かうと思ひ立つた頃のカフヱは較下り坂だと言つた方がよかつた。足かけ四年の結婚生活が何うにも支へ切れなくなりさうになつたところで、辛くも最後の一線に踏み止まらうとした晴代の気持にも既に世帯の苦労が沁みこんでゐた。
狭い路次にある裏の入口に立つてみると、そこに細い二段の階段があり、階段の側にむせるやうな石炭や油の嗅気の漂つたコック場のドアがあり、此方側の、だらしなく取散らかつた畳敷の女給溜りには、早出らしい女給の姿もみえて、その一人が立つて来て、じろ/\晴代の風体を見ながら、二階の事務室へ案内してくれた。
晴代は新らしい自身の職場を求めるのに、特にこの月魄を撰んだ訳ではなかつた。震災で丸焼けになつて、それからずつと素人になつて母と二人で、前から関係のある兜町の男から、時々支給を仰ぎながら細々暮らしてゐた古い商売友達の薫が、浅草のカフヱに出てゐて、さういふ世界の空気もいくらか知つてゐたので、何うせ出るなら客筋のいい一流の店の方がチップの収入も好いだらうと思つて、今日思ひ切つて口を捜しに来たのだつた。しかし構へを見ただけで、ちよつと怯気のつくやうな派手々々しい大カフヱも何うかと云ふ気もして、ちやうど「女給募集」の立看板の出てゐるのを力に、いきなり月魄へ飛びこんだ訳だつた。