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TORENDIA

大和路・信濃路

本文約57,600字 ・ 読了時間 約116分

あらすじ(AIが作成しました)

信濃の村の寺にある苔むした石仏に心を寄せた体験を綴る。その無心な姿勢に旅人である筆者は深い親しみを覚え、のちに中宮寺の観音像やガンダラの樹下思惟像へと関心を広げていく。さらに大和路を旅しながら古寺や挽歌を巡り、生と死への思索を重ねつつ、旅人として孤独な心持ちのまま各地の風景や歴史と対峙する自身の内面を描く。

堀辰雄

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樹下

その藁屋根の古い寺の、木ぶかい墓地へゆく小径のかたわらに、一体の小さな苔蒸した石仏が、笹むらのなかに何かしおらしい姿で、ちらちらと木洩れ日に光って見えている。いずれ観音像かなにかだろうし、しおらしいなどとはもってのほかだが、――いかにもお粗末なもので、石仏といっても、ここいらにはざらにある脆い焼石、――顔も鼻のあたりが欠け、天衣などもすっかり磨滅し、そのうえ苔がほとんど半身を被ってしまっているのだ。右手を頬にあてて、頭を傾げているその姿がちょっとおもしろい。一種の思惟象とでもいうべき様式なのだろうが、そんなむずかしい言葉でその姿を言いあらわすのはすこしおかしい。もうすこし、何んといったらいいか、無心な姿勢だ。それを拝しながら過ぎる村人たちだって、彼等の日常生活のなかでどうかした工合でそういった姿勢をしていることもあるかも知れないような、親しい、なにげなさなのだ。……そんな笹むらのなかの何んでもない石仏だが、その村でひと夏を過ごしているうちに、いつかその石仏のあるあたりが、それまで一度もそういったものに心を寄せたことのない私にも、その村での散歩の愉しみのひとつになった。ときどきそこいらの路傍から採ってきたような可憐な草花が二つ三つその前に供えられてあることがある。村の子供らのいたずららしい。が、そんなのではない、もうすこしちゃんとした花が供えられ、お線香なども上がっていたことも、その夏のあいだに二三度あった。

「お寺の裏の笹むらのなかに、こう、ちょっとおもしろい恰好をした石仏があるでしょう? あれはなんでしょうか?」夏の末になって、私はその寺のまだ四十がらみの、しかしもう鋭く痩せた住職からいろいろ村の話を聴いたあとで、そう質問をした。

「さあ、わたしもあの石仏のことは何もきいておりませんが、どういう由緒のものですかな。かたちから見ますと、まあ如意輪観音にちかいものかと思いますが。……何しろ、ここいらではちょっと類のないもので、おそらく石工がどこかで見覚えてきて、それを無邪気に真似でもしたのではないでしょうか?……」

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