やもり物語
本文約4,300字 ・ 読了時間 約9分
あらすじ(AIが作成しました)
駒込の下宿に住む「自分」は、雨の降る夜に訪れる暗闇阪の街燈で、細長い身体を曲げて貼り付くやもりを目にする。その姿は、かつて十九歳の夏に見た女中・お房や、身近な荒物屋の娘と母の悲劇的な運命を想起させ、自身の孤独な境遇と重なって苦い空想を呼び起こす。しかし、やがて荒物屋に新しい家族が増え、街に穏やかな日々が戻る中で、暗闇阪のやもりもまた、かつてのような呪わしい影を宿すことはなくなっていく。
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ただ取り止めもつかぬ短夜の物語である。
毎年夏始めに、程近い植物園からこのわたりへかけ、一体の若葉の梢が茂り黒み、情ない空風が遠い街の塵を揚げて森の香の清い此処らまでも吹き込んで来る頃になると、定まったように脳の工合が悪くなる。殺風景な下宿の庭に鬱陶しく生いくすぶった八つ手の葉蔭に、夕闇の蟇が出る頃にはますます悪くなるばかりである。何をするのも懶くつまらない。過ぎ去った様々の不幸を女々しく悔やんだり、意気地のない今の境遇に愛想をつかすのもこの頃の事である。自分のような身も心も弱い人間は、孟夏を迎うる強烈な自然の力に圧服されてひとりでにこんな心持になるのかと考えた事もある。こんな厭な時候に、ただ一つ嬉しいのは、心ゆくばかり降る雨の夕を、風呂に行く事である。泥濘のひどい道に古靴を引きずって役所から帰ると、濡れた服もシャツも脱ぎ捨てて汗をふき、四畳半の中敷に腰をかけて、森の葉末、庭の苔の底までもとしみ入る雨の音を聞くのが先ず嬉しい。塵埃にくすぶった草木の葉が洗われて美しい濃緑に返るのを見ると自分の脳の濁りも一緒に洗い清められたような心持がする。そしてじめじめする肌の汚れも洗って清浄な心になりたくなるので、手拭をさげて主婦の処へ傘と下駄を出してもらいに行く。主婦はいつもこの雨のふるのにお風呂ですかと聞くが、自分は雨が降るから出掛けるのである。門を出ると傘をたたく雨の音も、高い足駄の踏み心地もよい。