障子の落書
本文約3,200字 ・ 読了時間 約7分
あらすじ(AIが作成しました)
平一は、妹婿の葬儀や妹と姪の世話といった騒がしい日々を終え、二人を故郷へ見送る。帰宅後、静まり返った家で障子に描かれた姪の拙い落書きを目にした彼は、それまで抑え込んでいた亡き人への追憶や妹夫婦との思い出に触れ、形容しがたい悲哀の念に駆られる。本書は、家族の不幸による心労から解放された一人の男が、日常の些細な光景から去りゆく人々の面影を静かに回想し、胸の奥底に去来する感傷を描く短編である。
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平一は今朝妹と姪とが国へ帰るのを新橋まで見送って後、なんだか重荷を下ろしたような心持になって上野行の電車に乗っているのである。腰掛の一番後ろの片隅に寄りかかって入口の脇のガラス窓に肱をもたせ、外套の襟の中に埋るようになって茫然と往来を眺めながら、考えるともなくこの間中の出来事を思い出している。
無病息災を売物のようにしていた妹婿の吉田が思いがけない重患に罹って病院にはいる。妹はかよわい身一つで病人の看護もせねばならず世話のやける姪をかかえて家内の用もせねばならず、見兼ねるような窮境を郷里に報じてやっても近親の者等は案外冷淡で、手紙ではいろいろ体の好い事を云って来ても誰一人上京して世話をするものはない。もとより郷里の事情も知らぬではないがあまりに薄情だと思って一時はひどく憤慨し人非人のように罵ってもみた。時にはこれも畢竟妹夫婦があんまり意気地がないから親類までが馬鹿にするのだと独りで怒ってみて、どうでもなるがいいなどと棄鉢な事を考える事もあったがさて病人の頼み少ない有様を見聞き、妹がうら若い胸に大きな心配を抱いて途方にくれながらも一生懸命に立働いているのを見ると、非常に可哀相になって、役所の行き帰りには立ち寄って何かと世話もし慰めてもやる。妻と下女とをかわるがわる手伝いにやっていたが、立入って世話しているとまた癪にさわる事が出来て、罪もない妹に当りちらす。しかし宅へ帰って考えるとそれが非常に気の毒になって矢も楯もたまらなくなる。こんな工合で不愉快な日を送っているうちに病人は次第に悪くなってとうとう亡くなってしまった。病院から引取って形ばかりでも葬式をすませ、妹と姪とを自宅に引取るまでの苦労を今更のように思い浮べてみる。
殺風景な病室の粗末な寝台の上で最期の息を引いた人の面影を忘れたのでもない、秋雨のふる日に焼場へ行った時の佗しい光景を思い起さぬでもないが、今の平一の心持にはそれが丁度覚めたばかりの宵の悪夢のように思われるのである。