月かげ
本文約6,800字 ・ 読了時間 約14分
あらすじ(AIが作成しました)
春の夜、カフェーを訪れた私は、一人でにこにこと笑う青年に出会う。かつて撞球場で顔を合わせたその青年は、以前から店に出入りしており、時折不可解な言動を見せていた。女性店員のお光が彼の異様な様子に困惑する中、私は彼を交えて周囲と一時を過ごす。やがて青年は、かつて心中をし損ねた自身の過去を語り出し、月光が差し込む気配に呼応するように、突然店を飛び去ってしまう。残された私は、夢のような夜の静けさの中、家路につく。
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四月から五月へかけた若葉の頃、穏かな高気圧の日々、南西の微風がそよそよと吹き、日の光が冴え冴えとして、着物を重ねても汗ばむほどでなく、肌を出しても鳥肌立つほどでなく、云わば、体温と気温との温差が適度に保たれる、心地よい暖気になると、私は云い知れぬ快さを、身内にも周囲にも感じて、晴れやかな気分に包まれてしまった。思うさま背伸をしてみても、腕をまくってみても、足袋をぬいでみても、頭髪を風に吹かしてみても、爽快な感触が至る所にあった。着物も家具も空気も空も日の光も、一寸ひやりとする温かさで、肌にしみじみと触れてきた。そして何処にも、眼の向く所には、こんもりとした新緑の二枝三枝が見えていて、葉の一つ一つが輝かしい光を反射し、仄かな香をも漂わしていた。この愉快な一日をどうして過したらよかろうかと、そういった風な気持に私はなって、如何にせっぱつまった仕事が控えていても、それをみな明日へ明日へと追いやって、何処へともなく出歩くのだった。凡ての人がなつかしく、凡てのものが珍しくて、私の心はにこにこ微笑んでいた。
終日遊んだり歩いたりしても、なお倦き疲れることがなかった。自分の身体がまた思いが、日の光や街路の灯に最も近しく親しかった。夜が更けても、家に帰って寝るのが惜しまれた。空は晴れてるし、夜の空気は爽かだし、街路の灯は美しいし、最後にも一度酒か珈琲か、熱いものが一二杯ほしくなって、連れの友人を無理に誘ったり、或はまた自分一人で、十二時過ぎまで起きているとあるカフェーの、明るい室にはいって行くことが多かった。