食慾
本文約9,600字 ・ 読了時間 約20分
あらすじ(AIが作成しました)
高原で療養する夫婦の妻は、夫・野口の抱く冷徹な憐憫と野性的な気配に圧迫感を覚え、孤独と息苦しさを深めていく。ある日、妻は夫とは対照的な知人・木村と自然の中で過ごし、互いに惹かれ合うことで得た束の間の解放感に溺れる。しかし、その逃避的な関係は長くは続かず、すべてを夫に告白した妻は、彼の冷酷な軽蔑の眼差しを前に、夫婦の破綻を決定的なものとして深く悟る。
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同じ高原でも、沓掛の方は軽井沢より、霧も浅く湿気も少ないので、私の身体にはよいだろうと、そう野口は申しましたが、実際、私もそのように感じました。けれども、私の身体によろしいのと同じ程度に、野口の身体にもよろしいので、私達の間の健康の差は前と同様でした。……おう、うっかり口に出ましたが、健康の差……夫婦の間で、相手の体力や気力と自分の体力や気力とを比較して、そしてはっきり意識しますこと、それがどんなことだかは、実際に経験した人にしか分るものではありません。
おかしな話ですが、家の庭に、毛の深い身体のまるっこい黒犬――熊を小さく可愛くしたような恰好なので、クロと私達は呼んでいましたが、それがよく遊びに来ますので、いろんなものを食べさしてやりました。或る時、何もなかったので、野口は自分で鰹節をかいて御飯にかけてやりました。恰度鰹節が小さくなっていましたところ、野口はクロに食べさした後、いつまでも丹念にその鰹節をかき、中身のきれいなところだけにみがきあげておいて、それからその、歯も立たないような堅いのを、犬と戯れながらかじり始めました。奥歯や犬歯でがりがりかんだり、しゃぶったりして、如何にもおいしそうです。私は縁側にしゃがんで、遠い鈍痛のこもってるような胃部を押えて、彼の様子を眺めていましたが、彼は鰹節をしゃぶりながら、私の方を振向いて、微笑みかけ、それからふと、その微笑を消して、じっと私の顔を眺めました。その眼の中に、憐れみ……氷のように冷い憐憫を、私は読み取りました。
――「そんな、そんなばかなことがあるものか。気のせいだ。」と野口は申します。
けれど、憐憫にも、氷のように冷いものがあることは事実です。とは云え、鰹節の話なんか全くつまらないことかも知れません。