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TORENDIA

生活と一枚の宗教

本文約69,500字 ・ 読了時間 約139分

あらすじ(AIが作成しました)

著者自身の信仰経験に基づき、万物が本来的に如来であることを説く。仏教の専門的な哲学や経典の知識がなくとも、ありのままの存在そのものに尊厳があり、特別な条件や価値に関わりなく生命が宇宙に許されているという安心立命の境地を綴る。人間のみならず動物や植物、無機物に至るまで、すべての事象が如来としての相を備えているという認識に至り、その自覚によって生じる平等な世界観と絶対的な生活のあり方を論じる。

倉田百三

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一 信仰の経路について

私の信仰

これから私のもっている信仰についてお話をしたいと思います。私の信仰と申しますのは、いったい仏教であるか何であるかわからないのであります。私は仏教の経典というものはあまり読んだこともありませぬし、じつはよくわからないのであります。正式に仏教というものと関係があるということを申しますと、坐禅をしたことがありますが、それは正式の仏教としての修行であります。けれども仏教の哲学とか経典とかいうものはよく知りませぬ。私は『出家とその弟子』というものを書きまして、仏教のほうの人間だと思われております。しかしとにかく私のもっております信仰というものは、まあ禅宗とそれから真宗、これはたいへん似ていると思うのでありますが、ことに私の宗教というものは浄土真宗の信仰というものが『出家とその弟子』を書きましたときよりも後になって、だんだんと自分の身についてまいりまして、今ではそれが私の身体から離せないものになっております。山田霊林というかたがありまして『禅の生活』というものを出しておられますが、私が『絶対的生活』という書物を出しまして、そのなかに、私が強迫観念を治した経路のことを書きましたらそれをごらんになって、これは非常に禅宗的である。禅宗の公案の解決の仕方とじつにぴったりしたものである。これくらい禅宗的なものはないというて、転載させてくれというので載っているようなしだいでありますが、そういうふうに宗教の専門のかたが横のほうからごらんになったときに、私のもっている生活の信仰というものが仏教的なのでございまして、私自身では仏教というふうにとくべつに考えているわけではないのであります。したがって私がお話申しあげますときにも言葉が、あるいは仏教のほうの言葉をかってにもってきますと、とんでもないことを使っておるようでありますがご容赦を願います。

人はみな如来なり

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