菜の花は赤い
本文約7,800字 ・ 読了時間 約16分
あらすじ(AIが作成しました)
国文学者の奥山恩は、現代の日本語に不信を抱き、余計な装飾を省いた直截な言葉を目指す実験を妻の凜子と続けている。結婚以来十年、二人は二人きりの時だけ独特の夫婦語を使い、家庭内で言葉の革新を試みてきた。ある日、息子を連れてゆかりの地である湯河原を目指す旅行に出かけるが、宿の混雑により計画を変更し、菜の花が咲き誇る三浦半島へ向かう。夫が夢中で菜種の畑を見つめる中、妻は言葉の実験と家族の絆に思いを馳せ、胸を熱くする。
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一
かうと思つたらどうしてもそのことをやり遂げないと承知できない人物がゐる。
やり遂げる意志の力はまことに見あげたものであるが、「かうと思ふ」、その「かう」が問題であつて、結果の是非善悪はまたおのづから話が別であらう。
だが、ともかくも、さういふタイプの男としてすぐ私の眼に浮ぶのは、おそらく諸君の多くはその名前を聞かれたこともないであらう奥山恩といふもう初老に近い国文学者である。
国文学者にもいろいろある。
それをこゝでいちいち類別する煩をさけるが、奥山恩は、決して、訓詁を事とする旧学派に属してはゐない。むしろ、古典に対する絶大な愛を示しつゝ、なほかつ、その社会史的意義を正しく捉へ、現代につながる生命の発見に、むしろ最も激しいよろこびを感じる柔軟な頭脳の持主であつた。
彼は型の如く学校で英語は学んだけれども、シェイクスピヤもエリオットも原書でこれを読みこなす自信はなく、すべての外国作家なみに、目星しい翻訳に頼ることにきめてゐた。その代り、国文専攻の学者としては珍しいくらゐに、印度、支那、ギリシヤからはじまつて、世界のあらゆる国、あらゆる時代の文学をひとわたり、ひろひ読みをし、若いものをたじたじとさせることがあつた。
新制私立大学の国語国文教師としてのこの薀蓄は、必ずしも、彼を学界に押し出すことに役立たず、また、ジャアナリズムに迎へられる契機ともならなかつた。けれども、それは、彼にとつて、不幸なことではなかつた。彼は、泰然自若として、薄給に甘んじ、最も出費の少い方法で、内外の文学書をむさぼり読み、あまりぱつとせぬ生涯ではあるが、後世に伝へ得るたゞ一巻の著書を残すために、大海に真珠を捜る如く、全精神を打ちこめるやうなテーマの撰択に余念がなかつたのである。