戯曲二十五篇を読まされた話
本文約7,300字 ・ 読了時間 約15分
あらすじ(AIが作成しました)
四月号の寄贈雑誌に掲載された創作戯曲二十五編を読んだ著者が、各作品に対する気まぐれな印象を綴る一文である。大衆劇としての完成度や、人物描写の機械性、新しい生活様式の取り入れ方など、作品ごとの特徴を個別に論じる。その中で、坪田勝の「トロイの木馬」を非凡な才能として高く評価し、劇作家としての将来を期待する。著者は、自身の作家活動を客観視しつつ、評価を通じて戯曲界の現状と課題を率直に提示する。
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四月号の寄贈雑誌大小十六種のうちから、創作戯曲二十五種を選び出し、昨日(四日)まで暇を盗んで読んだ。その結果がこの一文になるわけであるが、僕は決してこの仕事を自分に適した仕事だとは思はない。たゞ書く方で愉快にならないやうな文章は、読む方でもつまらないにきまつてゐるから、努めてじう面はつくらないことにする。そのかはり、多少の戯談は許してもらひたい。
第一断つて置かなければならないのは、チヨンまげが出て来る芝居は、そのチヨンまげが武士であらうと町人であらうと、一切、批評することを断念した。(但し長与善郎氏の「武蔵と卜伝」だけはこの限りに非ず)
第二には、どれも一回しか読まなかつた。暇もなし、根気もなし、殊に……これは後でいふことにする。だから、もちろん、読みそこなひ、解り損ひ、時に感じ損ひが多からうと思ふ。僕は常に、佳い脚本なら五度くらゐ読まなければほんとの味が出て来ないものと思つてゐる。もつともさういふ脚本は、一度読んだ時に、はゝあ、こいつはたゞものでないといふことだけはかぎだせる。
第三に、一二ペーヂ読んで、付いて行けないと思つたものは――さういふ経験をだれでも有つてゐるだらうと思ふ――一ペーヂづゝ、時には四ペーヂづゝ飛ばして読んだ。それで解ることだけは解るのである。もつともそれだけで、その作品がどれほど悪いかなんていふことはいはない方がいゝ。
そこで結局、僕のきまぐれな印象記はいはゆる批評家の批評にはならずとも、一読者の声として、同じ作品を読んだ人達の「話相手」になればそれでいゝのである。
先づ創刊の「演劇新潮」では藤井真澄氏の「雷雨」を読んだ。仲々芝居をやつてゐる。昔の壮士芝居を思ひださせる場面がありますね。これが大衆劇といふんでせう。なるほど大衆には受けさうだ。また「人をのろへば穴二つ」といふ教訓も含んでゐて、カフエーなどに出入する不良青年少女を戒めるに足るものである。藤井氏年来の主張を裏切らない作品である。従つて同氏のものとしては佳作に属すべきものでせう。