感想
本文約1,700字 ・ 読了時間 約4分
あらすじ(AIが作成しました)
文学者と世間との間に生じている乖離について論じる。文壇独自の言語や風俗といった閉鎖的なあり方が文学を専門的で孤立したものにし、一般社会から遠ざけている現状を指摘する。文学者が世間に対して共通の言葉を失っていることを問題視し、専門家以外も対等に語り合える文学の在り方を模索する。文学の独自性を確保しつつ、世間に開かれた表現へと改善していくための道筋や、文学者の社会的役割の重要性を考察する。
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文学といふものを専門的なものと考へる理由は十分にあるが、また、これを専門的なものではないと考へる一面がある筈である。
専門家にしか興味のないやうな文学と、専門家には興味がないやうな文学(?)とが截然と別れてゐるところに、わが国現代文化の特殊性があるとみて、私は、今日のわれわれの仕事といふものの困難を、つくづく感じるのである。
個人々々の問題はしばらく措くとして、文学者一般が、世間なるものをどんなに遠いところにおいて眺めてゐるか、世間はまた文学者なるものを、どんなに「変つた存在」として扱つてゐるか、この点、誰でも気がついてゐるやうで、実はそれほど気にしてゐない事実を私は不思議に思ふ。
今や、文壇といふ特殊国には、世間一般に通用しない風俗習慣があり、言語があるのであつて、これに従ひ、それを重んじなければ、少くとも専門家の資格を欠くことになり、純文学は、これによつて、心境を研ぎすまし、大衆文学はこれによつて、厚化粧を施すのだとすれば、話はますますわからなくなる。
それでも、私は、純文学と大衆文学とを、こんな風に同じ垣根のうちに住はせるつもりはないのである。純文学は世間を相手とせず、大衆文学は読者本位に作られるものだといふぐらゐの区別は知つてゐるのである。が、ただ、世間といふものは、俗衆ばかりでできてゐないことをも知つてゐるのである。つまり、優れた文学が俗衆に容れられないからといつて、それで世間全体を軽蔑し、敵視することは当らないので、その傾向が遂に、「一般社会に話しかける言葉」を文学者から奪つたといふ観察を私は下してゐる。