演劇論の一方向
本文約9,400字 ・ 読了時間 約19分
あらすじ(AIが作成しました)
演劇の進化を論じる本稿は、従来の戯曲論が演劇の本質を捉え損ねていると指摘する。近代演劇が陥った混迷や形骸化を憂い、再び演劇的伝統に立ち返り、法則を吟味する必要性を説く。舞台における「制約」こそが演劇の生命を創り出し、俳優の演技を通じて発展的な律動を生み出すと考察。既存の通念に捉われず、劇的なるものを追求する道筋を提唱する。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
💰 この本を応援する(投げ銭)
凡そ、如何なる芸術と雖も、若干の「法則」に従はないものはない。と同時に、それらの「法則」を無条件に受け容れることは、甚だ「保守的な」態度と考へられてゐる。新しい芸術運動は、常にそれらの法則に対する反抗であり、又は、既成の法則に代る別個の法則の発見を目指してゐたのを見てもわかる。
偶々、あらゆる法則の無視といふ宣言がなされたにしても、何かを「創り出す」ためには、既に、何かに「拠る」ことが必要であり、意識するとしないとに拘はらず、厳として、創造を貫く精神の、つつましき母胎となるべきものが存在してゐることを見逃すことはできぬ。
世界の戯曲史を繙く時、われわれは、古典主義の「法則」が、かの浪漫派の馬蹄に蹂躙される事実を見、近代の黎明が、輝やかしい希望を乗せて近づき来る姿に胸を躍らせた。
そして、ある者は、今日、「戯曲文学」が、一切の「法則」から脱して、自由、且つ大胆な創造が許されてゐるものと信じてゐる。ところが、さう信じるものの手で、あらゆる試みがなされたに拘はらず、演劇そのものの進化はおろか、その行詰りが既に叫ばれてゐるのである。
舞台の因襲が演劇を堕落に導きつつあると同様、その放埓さは、現在の演劇を観衆より遠ざけつつある事実を認めなければならぬ。言ひ換へれば、劇場は、真の「演劇精神」と絶縁しつつあるのである。「演劇をして再び演劇たらしめよ」といふ合言葉は、大戦後の欧羅巴に於て挙げられたが、この言葉は抑も何を意味するか。私の考へでは、演劇の法則なるものを更めて吟味すべしといふことである。そして、それが若し、演劇を生かし得るものならば、再びそれを取戻せといふことである。ここで、ポオル・ヴァレリイが、定形詩について述べてゐる一句を思ひ出す。