本文へ移動
TORENDIA

黙然として

本文約1,000字 ・ 読了時間 約3分

あらすじ(AIが作成しました)

田中千禾夫の人物像と劇作家としての歩みを綴る。寡黙で謹直、鋭い観察眼を持つ同君は、慶応の仏文科を経て演劇研究を志し、処女作発表を機に劇作の世界へ進む。著者は、自身の野心を満たすためではなく、ただ演劇そのものに生き甲斐を感じる彼の姿勢に敬意を表す。また、同じく劇作家である夫人との結婚に触れ、夫婦で切磋琢磨する様子を旧友として温かく見守る。演出家としても評価を高める同君の、禅の如く黙然と舞台へ向き合う精神の核心に迫る。

岸田國士

速度
🎧 黙然として / 朗読音声: VOICEVOX:波音リツ

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 2

田中千禾夫君について何か書けといふ座(俳優座)からの註文である。かういふ場所で親しい友人の作品評でもあるまいから、僕の識つてゐる同君の人物紹介をごく寛いだ気持でしてみることにする。

田中君が鳥取の産だといふことは、ごく最近まで知らなかつた。慶応の仏文科在学中から演劇研究を志し、僕たちのやつてゐた研究所へ第一回生としてはいつて来た頃、同君の特徴は、今日と少しも変らぬ寡黙謹直、しかも、なかなか鋭い観察眼をもつてゐることだつた。将来、舞台に立つつもりかと聞いても、にやにや笑つてゐて容易に返事をしない。そのうち、若い劇作家との交遊ができ、当時創刊された「劇作」の同人に加はつたと思ふと、忽ち処女作「おふくろ」を同誌に発表した。

僕はおせつかいにも、もつと野心的なものを書けと忠告し、同君はまた「にやにや」でそれに答へたのだが、由来、同君が、いはゆる「野心的なるもの」を甚だ軽蔑する風があることを、後に様々な機会にやうやく察するやうになり僕は、遂に、兜を脱いだ。田中君にとつて「演劇」とは、それによつて己れの野心などを満すものではなく、ただそのためにのみ生き甲斐を感じるていのものなのである。

田中君は、やがて、相愛の夫人を同志のうちに求め得て、われわれを羨望せしめた。女流劇作家田中澄江は、それ故、二重に彼の生命の泉をなすものだと、僕は信じるが如何?

彼等の結婚披露は何処で行はれたか、今は記憶にないが、僕も招かれて、型の如く一席祝辞を述べさせられた。僕は、新郎の父君、たしか長崎病院長であられた老国手にやや気をかねながら、結婚によつて良妻を得ることも人生の幸福であらうが、誤つて悪妻を得たとしても、作家としては必ずしも損失とは言ひ難い。かのモリエールの如き例もある、などと口を滑らした。

その時、当の新婦、澄江夫人はつつましき微笑を新郎の横顔に投げてゐたことを思ひ出す。

岸田國士の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本