幕末維新懐古談
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あらすじ(AIが作成しました)
楠公像の制作過程や設置場所の選定、原型を巡る経緯について綴る。作者が自ら主任を務めた銅像制作の裏側を振り返り、木型の変遷や小型モデルの保存状況、宮内省との調整による設置位置決定の経緯を記す。当時、銅像が極めて珍しかった東京市中で、大村益次郎像に続く注目を集めた作品の歴史的背景と事実関係を後世に伝える記録である。
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さて、楠公像は、この原型を同じ美術学校の鋳金科教授岡崎雪声氏が鋳造致して住友家へ引き渡したことでありました。木型はその後大阪の博覧場というのに飾ってありましたが、今日は何処にあることか。確か、白い木地は銅色に色をつけてあったと記憶します。
またその後に至って、右の木型の形を縮めて、床置き位な小さい鋳物が四つか五つ出来ました(住友家の依頼であった)。これは山田鬼斎氏が大作に依って小型を彫りましたのです。その小型が今日美術学校の文庫に保存されてあります。これを元の原型と間違えている人もあるから、これもついでに間違わないように断わって置きます。事実を確かにして置きませんと、現にまだその製作主任をした私が生きている間に、早くもその作者の名さえも間違うようなわけでありますから、確実なことを記録に止めて置くは必要の事と思います。
楠公像の馬場先門外に建ったのは、ずっと後のことで、その建設の場所なども、最初は学校の方で選定することになっておって、二重橋寄りで、直ぐ門に接した処にしたいという考えであったが、それは宮内省の方で、練兵の都合などあって御許しがなく、現在の位置に立つこととなりましたが、かえって今日ではこの方がよろしかったかと思われます。
また台石の方は多分宮内省の方で作ったことと思います。この台石製作の任に当った人は、研究調査のため洋行をしたとか聞きました。
何しろ、その当時のことで、銅像は東京市中に珍しく、九段の大村さんの銅像以来のことで、世の注目を惹きました。
完