本文へ移動
TORENDIA

夭折した富永太郎

本文約1,300字 ・ 読了時間 約3分

あらすじ(AIが作成しました)

富永太郎の姿と、彼が育った帝都の空気感、そしてその詩世界について綴る。重鬱な日常を送る友人の風貌を丁寧に写生し、自我崇拝主義者として生きた内面を考察する。良心の磨滅や妥協を良しとしない真率な姿勢と、彼が憧れた象徴派詩人としての側面に触れながら、早世した友人の全貌と、残された詩がもたらす知的な慰めを追悼する形で論じる。

中原中也

速度
🎧 夭折した富永太郎 / 朗読音声: VOICEVOX:玄野武宏

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 2

ほつそりと、だが骨組はしつかりしてゐた、その躯幹の上に、小さな頭が載つかつてゐた。赤い攣れた髪毛が額に迫り、その下で紅と栗との軟い顔がほつとり上気してゐる。黒く澄んだ、黄楊の葉の目が、やさしく、ただしシニカルでありたさうに折々見上げる。

彼は今日、重欝なのだ。卓子に肘を突いたまゝ、ゆつくり煙を揚げてゐる。尤も喫つてゐるものだけはうまさうだが。戸外は――地面は半ば乾いてあつたかい、空を風は、目標ありげにとぶ、梅雨期の或る一日だ。

そして今彼に対面する者は、彼をただ友人とのみ考へるなら、余りに肉親的な彼の温柔性に辟易しなければならない破目になるだらう。さしづめ、彼は教養ある「姉さん」なのだが、しかしそれにしては、ほんの少しながら物質観味の混つた、自我がのぞくのが邪魔になる。

友人の目にも、俗人の目にも、ともに大人しい人といふ印象を与へて、富永は逝つた。そしてそれが、全てを語るやうだ。

人が、真率にして齢を重ねる時、「習慣」の存在に対して次第に寛容になることは、自然なことである。そしてそれは、それまではよろしい。けれどもやがて彼がその寛容を手段の如く把持するに至つて、彼は堕落である。だが、寛容であることは自説的であるよりも遙かに易しい。良心は遅かれ早かれ、磨滅する性質のものだ。それから、人々によつて真面目な手記と見做されてゐるものはすべて、これら寛容な人達、殊には老人の手によつて遺された。

真率にして富永は齢を重ねていつた。寛容を識つた。ところで代は甚だしいヂャナリズムでいつぱいだつた。彼は、自我崇拝主義者(となつた)であつた。智的享楽性に乏しくされた。ユーモアを虐待することと、人格者であるといふことと、平和と苟安とは同義で通用する日本の、そして帝都は彼の育つた雰囲気であつた。かかる時自我崇拝主義は微笑んだ――。

中原中也の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本