本文へ移動
TORENDIA

郷愁の詩人 与謝蕪村

本文約38,900字 ・ 読了時間 約78分

あらすじ(AIが作成しました)

与謝蕪村を好む詩人が、写生主義の定評に留まる従来の俳句観を批判し、抒情詩としての俳句の本質と蕪村の特異な情操を論じる。浪漫的な青春性と明るい色彩感覚に満ちた蕪村の句を、万葉集や西洋の抒情詩と重ねて考察し、近代の感性でその真髄を紹介する。また、附録として芭蕉の句に自身の主観を交えた私見を収める。

萩原朔太郎

🎧 まだ音声版はありません

リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 52

序

蕪村や芭蕉の俳句に関しては、近頃さかんに多くの研究文献が輩出している。こうした時代において、著者の如く専門の俳人でもなく、専門の研究家でもない一詩人が、この種の著書をあらわすということは、無用の好事的余技の如く思われるが、決してその然らざる必然の理由があるのである。というのは、従来世に現われている蕪村論や芭蕉論は、すべていわゆる俳人の書いたものであり、修辞や考証の解説上で、専門的に入念を極めた絶好の書であるけれども、俳句そのものの本質しているリリックの真精神を意外に忘却しているものが多いのである。特に蕪村の俳句にいたっては、子規以来単なる写生主義ということで定評づけられ、一もその真の詩的精神――俳句のエスプリする哲学原理――を批判されてない。俳壇のいわゆる俳人たちは、彼らの宗匠的主観に偏して、常に俳句を形態上のレトリックでのみ皮相な手法的技巧観で鑑賞するため、句が詩情している本質のポエジイと、その背後にある主観の貫ぬく哲学とを、ややもすれば閑却無視することになるのである。つまり彼らは、俳句が抒情詩であることの本義を忘れて、単にこれを形態上のレトリックでのみ、皮相に解釈しているのである。

著者は専門の俳人ではない。しかし元来「詩」というものは、和歌も俳句も新体詩も、すべて皆ポエジイの本質において同じであるから、一方の詩人は必ず一方の詩を理解し得べきはずであり、原則的には「専門」ということはないはずである。専門というべきものは、単に修辞の特殊的な練習にのみ存しおり、鑑賞上には存在の区別がないはずである。しかも今日の日本では、僕らのいわゆる詩人(新詩人)が、他の伝統詩の歌人や俳人に比して、比較的に自由な新しい鑑賞眼を所有している。すくなくとも僕らの詩人は、より因襲のない自由な立場で、古典の詩を新しく本質的に鑑賞し得る便宜を持っている。

萩原朔太郎の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本