本文へ移動
TORENDIA

春宵戯語

本文約3,700字 ・ 読了時間 約8分

あらすじ(AIが作成しました)

菜の花畑が広がる関西の田園風景や、幼少期に親しんだ信田の森の葛の葉狐の伝説、日向雨にまつわる狐の嫁入りの幻想などを綴る。さらに「日本霊異記」に見える狐の末裔と女力士の怪力譚や、岡本綺堂の怪奇小説に触れつつ、狐にまつわる伝承や物語が持つ情趣と、古今の怪異談を縦横に語る随筆である。

長谷川時雨

速度
🎧 春宵戯語 / 朗読音声: VOICEVOX:波音リツ

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 5

ふと、ある日、菜の花のお漬けものがございますかとAさんにお目にかかつたとき、關西の郊外の話から、お訊ねしたことがあつた。それは、ずつと前に、たしかに菜の花であらうと思ふのを食べた、その風味を忘れないでゐたからだつた。

ありますとも、しかし、あれは、はじめに出たしんを止めて、二度目に一本出た花の、頭のさきを、ちよぼつと摘んだのがよろしいと委しくをしへていただいた。わたしはくひしんぼで食道樂からばかり菜の花漬をおぼえてゐたのではないが、あると聽いてうれしかつた。

わたしは子供の好むやうな春の景色がすきで、したがつて菜の花に黄色い蝶が飛んでゐるありきたりの野面が大好き。目もはるかに、麥畑が青くつづいて、菜の花畑は黄で、そのずつとむかうに桃圃のある、うち展けた、なだらかな起伏の、平凡すぎるほどのどやかな田園風景が好きだつた。だがもう、東京附近ではさうした景色はだんだんなくなつてしまつて、麥畑や桃圃はあつても、黄色い菜の花のつづいたところなどは、げんげ草とともに、春の野面からいろどりを失つてしまつてゐる。

で、いつも菜の花を思ふと、河内の風を思ひだす。菜の花のかをりと、河内和泉の、一圓に黄色にぬりつぶした中に、青い道路のある、閑けさと、豐けさとをもつ田舍が、すぐ目にくるのだつた。そしてまたわたしは、あの菜の花の咲きつづく和泉の國、信田の森の葛の葉狐の傳説をおもひうかべないではゐない。

この傳説は、幼少のころ、文字から來ないで、さきに、目と耳からはいつた。見る方は芝居で、障子へ、戀しくばたづね來てみよ和泉なる信田の森の怨み葛の葉、と書き殘して姿を消す、葛の葉姫に化けた狐の芝居の幻想が、すつかりわたしを魅了してしまつたのだつた。母狐に殘された幼い阿部の童子のあはれさが、おなじ年頃のものの心へ働きかけたのはいふまでもないが、あの芝居の舞臺面はいかにも美しく情趣がこまやかだ。たけてしかも鄙に隱れ住む、すこし世帶やつれのした若い母が、窓のきはで機を織つてゐる夕暮れ、美しい都の姫がたづねてくる。ほんものの葛の葉姫と狐葛の葉との喜悲は、障子の紙一重の相違となり、破局となる。

長谷川時雨の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本