本文へ移動
TORENDIA

最後の大杉

本文約11,500字 ・ 読了時間 約24分

あらすじ(AIが作成しました)

著者と親交があったアナーキスト・大杉栄の晩年の姿を回想する。大杉が家族と共に著者の近所へ転居してきた時期、地震の混乱の中で高まる危険人物への不信感や、スパイ疑惑といった世間の風説を織り交ぜつつ、家庭人としての柔和な一面を描く。その直後に大杉が突然姿を消し、歴史的な大事件へと至る中、彼が何者であったのかを著者自身の視点から問い直す随筆である。

内田魯庵

🎧 まだ音声版はありません

リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 15

一

大杉とは親友という関係じゃない。が、最後の一と月を同じ番地で暮したのは何かの因縁であろう。大杉が初めて来たのは赤旗事件の監房生活から出獄して間もなくだった。淀橋へ移転してから家が近くなったので頻繁に来た。思想上の話もしたし、社会主義の話もしたが、肝胆相照らしたというわけでもないから多くは文壇や世間の噂ばなしだった。

大杉は興味がかなり広くて話題にも富んでいた。近年ファーブルのものを頻りに飜訳していたが、この種の文学的乃至学術的興味を早くから持っていて、主義者肌よりはむしろ文人肌であった。小説も好きなら芝居も好き、性的研究などにも興味を持って、性的研究に率先した小倉清三郎の「相対」の会などにも毎次出席して、能く「相対」の会の噂をした。

百人町を移転してから家が遠くなったので自然足が遠のいた。如之ならず、神近や野枝さんとの自由恋愛を大杉自身の口から早く聞かされたが、常から放縦な恋愛を顰蹙する自分は大杉のかなりに打明けた正直な告白に苦虫を潰さないまでも余り同感しなかったのを気拙く思ったと見えて、家が遠くなると同時に足が遠のいてしまった。日蔭の茶屋の事件があった時、早速見舞の手紙を送ると直ぐ自筆の返事を遣したが、事件が落着してもそれぎり会わなかった。それから程経って野枝さんと二人で銀座をブラブラしている処へ偶然邂逅し、十五分ばかり立話しをした事があったが、それ以来最近の数年間はただ新聞で噂を聞くだけであった。

大杉が仏蘭西から追返され、神戸へ帰着して出迎えの家族と一緒に一等寝台車で東上した記事が写真入りで新聞を賑わしてから間もなくだった。或る朝突然大杉さんがいらしったと家人が取次いだ。大杉何という人だと訊くと、大杉栄さんで皆さん御一緒ですといった。近頃何年にも顔を見せた事がない大杉が、シカモ家族を伴れて来るというは余り思掛けなかったが、左も右く二階へ通せと半信半疑でいうと、やがてトントン楷段を上って来たのは白地の浴衣の紛れもない大杉であった。数年前の大杉と少しも違わない大杉であった。その踵から児供を抱いて大きなお腹の野枝さんと新聞の写真でお馴染の魔子ちゃんがついて来た。

内田魯庵の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本