おりき
本文約37,000字 ・ 読了時間 約74分
あらすじ(AIが作成しました)
八ヶ岳の裾野で麦を刈る百姓の老婆は、山歩き中の若い青年と出会う。道を確認する青年と語らう中で、村の若者が甲府へ出ることへの老婆の懸念や生活の苦労が垣間見える。青年は礼として歌を披露し、海軍中尉であることを明かして去る。老婆は青年を見送った後、再び風を利用して麦をふるい分ける日常の労働へ戻る。高原の真昼の静けさの中で交わされた一期一会の交流と、変わらぬ農村の生活を描く物語である。
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信濃なるすがの荒野にほととぎす
鳴く声きけば時過ぎにけり
――万葉東歌――
八ヶ嶽の、雄大な裾野の一角。
草場と、それから此のあたりでカシバミと呼んでいる灌木の叢に取り巻かれた麦畑。黄色によく実った麦の間には既に大豆が一尺近く育っている。
麦畑の奥は向うさがりに広がっていて、此方から見えるのは、その極く一部分だけ。周囲の草場の一部は草が刈り込まれ、そこが麦こきの仕事場になっていて、刈り集められた麦の束が積んであり、その傍には荒むしろが三四枚ひろげられ、その上に牛くさの千歯が据えてある。
小径は仕事場のむしろの傍を通り草場を抜けて左右に伸びている。下手に伸びた小径は、麦畑のふちを通って、八ヶ嶽の峯々が合掌するように空に連っている方へ。上手に伸びた小径はカシバミの叢の中を廻って正面奥に下って消えている。
ただ見れば平地であるが、実は海抜二千メートル以上の高地である。眼を開いていられぬほどに明るい夏の午後。
人の姿はなく、ただ麦畑の穂波の一個所が、モゴモゴと動いている。
シンカンとした永い間。
奥の谷の方から、小径を踏み分けてスタスタと登って来る青年。まだ少年と言ってもよいほどの頬をした、スッキリと明るい若者で、ズボンに巻脚絆に靴、あまり大きくないリュックサックにピッケルと言った、無造作な、だがしっかりした山歩きの装具。
草場のはずれの所まで来て、ピッケルを立て、カーキ色の散歩帽を脱いで、白い額に流れる汗を手拭いでふきながら、越えて来た山の方などを見渡している……。