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TORENDIA

よもやまの話

本文約4,600字 ・ 読了時間 約10分

あらすじ(AIが作成しました)

明治以降の日本における西欧文献の受容を論じる。先人たちは海外の文献を急激かつ無批判に渉猟したため、消化不良の状態に陥り、批評精神を欠いたまま流行に流される「粗朴」な状況を生んだ。著者は、自分の感性に従う創造的な態度へ立ち返る重要性を説き、詩の軽視や偏った翻訳傾向を指摘しながら、日本の文学や生活が本来の健全さを取り戻すべきだと提言する。

中原中也

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🎧 よもやまの話 / 朗読音声: VOICEVOX:雨晴はう

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ジイド全集ももうあと三冊で完了する。寔によく読まれよく評されて来た。今更私なぞがジイドのことを書くにも当るまい。ジイドのことを書けとて与られた紙面ではあるが、そのやうなわけで今はよもやまの話をさせて貰はうと思ふのである。

※

ソクラテスからジイド迄、いやもつと前からジイド迄かも知れぬ、僅々七十年間に、一とわたり読破した我が日本の力といふものは、世にも恐ろしい力である。だがまた振返つて考へてみると、そこには可なりな消化不良がないとは云へぬ。扨日本の力が偉大であることに関しては、誰も異論のあらうわけはないから、その方はそれとして今日はその消化不良の方を論じて見たいと思ふ。

御覧の通りに僅々七十年間に、ソクラテスからジイド迄読破することが出来たといふのは、もとより負けじ魂に由るものであるが、注意すべきは、その負けじ魂といふよりかも、我等が粗朴であつたからである。何故かといふに、我等がもつと粗朴でないものであつたとしたら、かくも尨大な文献の前に、突然身を置いた我等として、その一冊一冊に取掛からうとするまへに、かくも尨大な文献の前に突如連れて来られたといふ我等の運命に就いて先づ考へようとしたであらう。即ち、文献を見る前に、文献の存在といふことに思ひを致したであらうといふのである。どうせ短い人間一生の前には、その日まで全然見も知らずにゐた西欧二千年の文献の、余りに奇異にも尨大であつたことは当然である。

それを兎も角手当り次第に手を付けたといふことは、我が同胞の、粗朴であつたればこそである。而して、勿論それは好もしいことであると同時に、その裏にはまた少々悲しい事情もなかつたとは云へぬ。

即ち、統一だの全体性だのと称ばれるものは、其処に欠乏してゐたのである。云換れば、其の西欧二千年の文献の、そのあれやこれやが、誰かの口によつて少し唱へられさへすれば、人々はその方へドヤドヤと寄り、それを一通り見た頃にはもう飽き飽きしてゐたのである。其処に、「自分」といふものは甚だ稀薄であり、一種の流行があつたばかりといふも強ち過言ではないのである。

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