吉兆吉運
それから四、五十日の日が過ぎた。
暑い。
南国らしい暑さの夏!
雄大な雲の峰の下に、徳島の城下は、海の端に平たく見えて、瓦も焼けるようなギラギラする陽に照らされている。
カチ、カチ、カチ! たえまのない石工の鑿のひびきが、炎天にもめげず、お城のほうから聞えてくる。町人の怠惰を鞭うつようだ。
徳島城の出丸櫓は、もうあらかた工事ができている。今は、いつか崩壊した石垣の修築が少し残っているばかり、元気のいい鑿の音は、そこで火を出しているひびきである。
阿波守重喜も、その後、めっきり快方に向っていた。
ひと頃、家臣たちが眉をひそめた、病的な乱行も止まって、今では、神経衰弱のかげもない程、まっ黒に日にやけている。
あまたの若侍と一緒に、徳島城の大手から津田の浜へ、悍馬をとばしてゆく重喜の姿をよく見かける。
水馬、水泳、浜ではさかんな稽古である。ある時は、家中をあげて、陣練、兵船の櫓稽古などが行われた。
今日も阿波守は、水襦袢に馬乗袴をつけたりりしい姿で、津田の浜のお茶屋に腰をすえ、生れ変ったような顔を潮風に磨かせていた。
そして、白浪をあげて乗り廻している水馬の群れを眺めて、時々、ニッコとさえしている。
健康とともに、強い希望の火が、かれの行く手によみがえってきていた。赫々としてきた。
潮音、海風、すべて討幕の声! そう胸を衝つのである。
炎日、灼土、すべて回天の熱! そう感じられてくるのである。
健康な心には、迷信の棲みうる闇はなかった。間者牢のことも俵一八郎の死も、阿波守の脳裏からいつか駆逐されて、その後には、ただ大きな望みだけが占めていた。
ことに。
もう五十日ほど前に、沼島の沖合で、法月弦之丞とお綱とが、暴風雨の狂瀾を目がけて身を躍らせたので、とうとう、それなり海のもくずになったであろうという三位卿の報告は、かれをして、ホッとした息をつかせたに違いない。
「幸先はよいぞ!」
阿波守の意気があがるとともに、出丸曲輪の工事は成り、石垣の普請は近く手を離れるばかり、火薬は硝薬庫にみち、兵船はそろい、家中の士気は揃ってくる。すべてが、不思議なほどトントン拍子に吉事を重ねてくる。