大岡越前
本文約216,100字 ・ 読了時間 約433分
あらすじ(AIが作成しました)
元禄時代の江戸。世の中の不条理に翻弄される人々の中で、浪人風の男たちや町人が中野のお犬小屋へ忍び込み、犬に餌を与えるという不可解な行動をとる。一方、大岡越前守は、世間から死んだと思われている娘・お燕を密かに保護し、教養と愛情を注いでいた。父としての責任感に目覚めた越前守と、悲嘆から解放されつつある母のお袖、そして影で暗躍する者たちが入り乱れ、江戸の町で複雑な人間模様が交錯していく。
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第一章
三人男
「犬がうらやましい。ああ、なぜ人間なぞに生れたろう」
冗戯にも、人間仲間で、こんなことばを聞くことが近年では、めずらしくもなくなった。
笑えるうちは、まだよかったが、この頃ではそんな冗戯が出ても、笑う者もなくなった。
「何しろ、怪ッ態な世の中になったものです。お犬様には、分るでしょうが、人間どもには何が何だか、わけが分りませんな」
これは、庶民とよぶ人間の群の、一致していうことばだったが、人々のあたまの中は、言葉どおりに、一致してはいなかった。こういう時代の特徴として、各の思想も、人生観も、三人よれば、三人。十人よれば、十人十色にちがっていた。世にたいする考えも、自分というものの生かし方も、皆、まちまちで、ばらばらで、しかも表面だけは妙に、浮わついた風俗と華奢を競い、人間すべてが満足しきッてでもいるような妖しい享楽色と放縦な社会をつくり出していた。
夏の夜である。――元禄十四年の盆すぎ。
蛍狩りでもあるまいに、淀橋上水堀の道もないあたりを、狐にでも化かされたような三人男が歩いていた。
「おいおい、大亀。待てやい。待ってやれよ」
「どうしたい。阿能十」
「味噌久のやつが、田ン圃へ落ちてしまやがった。まっ暗で、引っ張り上げてやろうにも、見当がつかねえ」
「よくドジばかりふむ男だ。味噌久はかまわねえが、背負わせておいた御馳走は、まさか田ン圃へ撒いてしまやアしめえな」
べつな声が、闇の中で、
「ええ、ひでえことをいう。ふたりとも身軽なくせに。すこし荷物を代ってくれやい」
と、田の畦を、這い上がっているようだった。
大亀と阿能十は、おかしさやら、暗さやら、わけもなく笑いあって、
「まあ、そういうなよ。目ざす中野はもうすぐだ。辛抱しろ、辛抱しろ」
「だが、着物の裾をしぼらねえことにゃあ、どうにも、脛にベタついてあるけもしねえ」
「阿能。泣きベソがまた泣いていら。そこらで一ぷくやるとするか」
小高い雑木林の丘に、男たちは腰をおろした。