本文へ移動
TORENDIA

美しい日本の歴史

本文約18,500字 ・ 読了時間 約37分

あらすじ(AIが作成しました)

天誅組の首領・藤本鉄石は、淡路の旧家で愛した娘との別れ際、泣きじゃくる彼女の鏡台にある白粉を自らの鼻につけてみせた。男は、愛した人の匂いを忘れないためのユーモアあふれる別れの所作を残して去る。本作は、この東洋的な愛情表現の機微と、現代の映画における別れの場面を対比させながら、男女の情愛の古今東西に変わらぬ姿を綴る随筆である。

吉川英治

🎧 まだ音声版はありません

リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 23

鼻の白粉

一夜、ある映画館で私はつい飛んでもない自分の阿呆をあたりのつつましい観客たちに暴露していた。人気者のユル・ブリンナー主演の「大海賊」を観ているうち、誰もがシュンとしていたラストの恋人との別れのシーンへ来てつい私はクツクツ笑いが止まらなくなってしまったのだ。

主役の海賊のブリンナーが恋人の胸をつき放して言いつづける。『祖国のない海、定住のない海。君は連れて行けない』『君は残れ。愛すればこそ、永遠に愛すればこそ、君を連れて行くわけにはゆかないのだ』。どうもお古いセリフである。

だが私は、それでおかしくなったわけではない。ちょうど時代もこの映画が扱っている十八世紀ごろの日本にあった一組の男女を思い出して、つい二重唱に画面を観ていたせいなのだった。では日本版のそのラヴ・シーンとは何かというと、大ざっぱに言って、幕末維新の先駆をなした天誅組の首領、藤本鉄石(真金)にこんな一話があったのを、書名は忘れたがふと思い出したのである。

淡路島の洲本に、廻船や穀問屋などしている旧家があり、当時、志士達のパトロンだった。鉄石も西遊中に、長らく滞留していたことがあって、その洲本屋の娘に絵など教えているうちついいい仲になっていた。しかしその後、いよいよ天誅組一味の大和旗挙げの機も熟したので、鉄石は淡路へ渡って、旧恩のある洲本屋へそれとなく別れを告げ、そして一晩はそこに泊った。

すると翌朝、いざ立ち際になると、前夜は得心していたはずの娘が俄に泣きみだれて、どうしても一しょに連れて行けといっておさまらない。鉄石も弱ったろうが、然し四十男の彼でもあった。

『よしよし、泣け泣け、連れて行く連れて行く』

子供をあやすように泣きじゃくる恋人の背を撫でてやった。

『ほんとに』

と、彼女はうれしげに涙を拭いた。鉄石は大きく『うん』と、うなずきながら、なに思ったか、彼女の鏡台の白粉ツボへ指を入れて、自分の鼻の頭へその白い物をすこしくッ付けて見せた。娘はハッとしたきりで言うべき言葉も出て来ない。そのすきに男はもう座を去って言い捨てていたという事である。

吉川英治の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本