TRENDIA CLASSIC

三国志

吉川英治

1 / 176

黄巾賊

後漢の建寧元年のころ。

今から約千七百八十年ほど前のことである。

一人の旅人があった。

腰に、一剣を佩いているほか、身なりはいたって見すぼらしいが、眉は秀で、唇は紅く、とりわけ聡明そうな眸や、豊かな頬をしていて、つねにどこかに微笑をふくみ、総じて賤しげな容子がなかった。

年の頃は二十四、五。

草むらの中に、ぽつねんと坐って、膝をかかえこんでいた。

悠久と水は行く――

微風は爽やかに鬢をなでる。

涼秋の八月だ。

そしてそこは、黄河の畔の――黄土層の低い断り岸であった。

「おーい」

誰か河でよんだ。

「――そこの若い者ウ。なにを見ているんだい。いくら待っていても、そこは渡し舟の着く所じゃないぞ」

小さな漁船から漁夫がいうのだった。

青年は笑くぼを送って、

「ありがとう」と、少し頭を下げた。

漁船は、下流へ流れ去った。けれど青年は、同じ所に、同じ姿をしていた。膝をかかえて坐ったまま遠心的な眼をうごかさなかった。

「おい、おい、旅の者」

こんどは、後ろを通った人間が呼びかけた。近村の百姓であろう。ひとりは鶏の足をつかんでさげ、ひとりは農具をかついでいた。

「――そんな所で、今朝からなにを待っているんだね。このごろは、黄巾賊とかいう悪徒が立ち廻るからな。役人衆に怪しまれるぞよ」

青年は、振りかえって、

「はい、どうも」

おとなしい会釈をかえした。

けれどなお、腰を上げようとはしなかった。

そして、幾千万年も、こうして流れているのかと思われる黄河の水を、飽かずに眺めていた。

(――どうしてこの河の水は、こんなに黄色いのか?)

汀の水を、仔細に見ると、それは水その物が黄色いのではなく、砥石を粉にくだいたような黄色い沙の微粒が、水に混じっていちめんにおどっているため、濁って見えるのであった。

「ああ……、この土も」

青年は、大地の土を、一つかみ掌に掬った。そして眼を――はるか西北の空へじっと放った。

吉川英治の他の作品