勝負の壇
正成は弓杖をつき、すこし跛をひいていた。
もっとも、千早の城兵はいま、五体満足なのはほとんど少ない。将たちもみなどこかには、怪我か手傷を負ッていた。
でなければ病人である。
「……が、了現」
いま、その病棟を見舞って出てきた正成は、うしろの、安間了現をふりむいて、
「意外にみな元気だな。山上にもやっと木の芽や草が萌えてきたし、もう病人に与える青い食物にも事欠くまい」
と、梢の色や地の力を見まわして、それも味方と恃むように言った。
「はい。士気は病者といえあの通りさかんなものです。けれど貯備の食糧がそろそろ底をつきかけておりまするで」
「穀類か、まず」
「稗、粟、米、どれもいくらの余裕もありませぬが、わけて塩倉の塩もはや……」
「調べたのか」
「は」
と、了現はさっそく、ふところ覚えを、よろいの袖から取り出して、およその数量を正成へいていた。ここでの、孤立持久の籠城は、正成がはじめから一貫してきた方針である。
その方針を破ッて、当初、天王寺、堺あたりまで少数の兵でしばしばムリな奇襲を敢行したのも、敵の首があてではなく、塩、粟、干魚、海草などを帰りに運んでくるのが主要な作戦目的であったのだ。
もちろん、それいぜんから、山上にはあらゆる貯備に努めてはいた。
焼米、道明寺糒。
河内名物のドロ芋。
その茎を干したずいき。
また梅漬け、干柿、栗、およそ保存にたえるものは、なんでも糧倉へみたしていたが、しかし城兵一日の糧を、かりに米六合とみれば、千人で日に六石、古法の三斗五升俵にして十七俵強の容積である。それに副食物を加えた物が夜さえ明ければなくなってゆくわけだ。
もちろん合戦のすきにも、葛城の尾根や、間道をたどって、外部から蟻が穴へ持ち込むようなことはしつづけていたが、山伏の背や、忍び隊の搬入などは、およそたかのしれた量でしかない。――安間了現が、ふところ覚えを繰るたび眉をくもらすのは当然だった。