野分のあと
敗者の当然ながら、直義の三河落ちはみじめであった。
淵辺伊賀守の斬り死になどもかえりみてはいられず――敵に追われどおしで、とくに手越河原では残りすくない将士をさらにたくさん失い、今川、名児耶・細川、斯波など一族子弟の討死も幾人かしれなかった。
ついに、ここでは直義も進退きわまったとみてか、
「腹掻き切って、左兵衛ノ督(兄尊氏)どのへお詫びせん」
といったのを、
「何の、ここはお討死のつぼにあらず。いかなる恥をしのんでも、生きてこそ」
と、今川範国のいさめに思いとまって、苦闘に苦闘をつづけ、やっと川を渡りえたとつたえられている。だがこの段はさて、どんなものだろうか。
直義の性格として、めったに斬り死にだの自害だのとは言いだしはしまい。もし事実なら、おそらくまわりの将士にさいごの決意を奮わすための指揮者の血相をみせたまでのものではなかったか。
なぜなれば、彼には、彼の身ひとつ以上な重任が考えられていたはずである。――鎌倉から救出して連れていた成良親王・みだい所の登子・またとくに若御料(尊氏の一子・千寿王)らの足弱をおいて――そうした短気はおこしえないところであった。
また、べつに淵辺をやッて、このどさくさ紛れに、大塔ノ宮を暗殺せしめたなどの、直義がとった処置をみても、惨敗の中でこそあれ、彼はなかなか狼狽などはしていない。次の段階――将来というものにたいして、兄の尊氏以上にも、
「ここは」
と、はや今日の鎌倉放抛を、大望第二期への峠として、独断、思いきった手段に出ていたこととわかる。
そして要するに、彼の胸にあったのは、長いあいだのもどかしさを、宮弑逆の一事にかなぐり捨て、つねに政治的に、またつねにじれったい、兄の態度をして、いやおうなしに明確な反朝廷へとここで引きずりこんでしまおうとする彼一流の強引な腹だったにちがいない。
とまれ、手越河原の難はからくも脱しえたが、矢矧までまだ四十里ほどはあった。――が幸いにも、ところの地頭、入江ノ左衛門春倫の一隊が味方にはせ加わり、どうやら月の末、三河国の矢矧についた。