TRENDIA CLASSIC

野槌の百

吉川英治

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チチ、チチ、と沢千禽の声に、春はまだ、峠はまだ、寒かった。木の芽頃の疎林にすいて見える山々の襞には、あざやかに雪の斑が白い。

「あなた。――あなた」

お稲は、力なく、前に行く人をよんだ。

かの女の十間ほど前を、三五兵衛は黙々と、あるいて行くのだった。

振り向いて、棘のある眼が、

「なんだ?」

と、邪慳にいった。

生まれてまだ六月か七月ぐらいな嬰児を背に、つかれた足を、弱々と、引きずって来たお稲には、その十間の幅さえ、追いつくのに努力だった。ことに、よほど急ぐ飛脚か、世間をかくれて渡る人間でもなければ、滅多に通らない甲州の裏街道――大菩薩から小丹波を越えるというのは、空身でも、女には、初めから無理な道なのである。

「すこし、休ませて……。この児にも、乳をやらなければ」

「陽の暮までに、青梅までつきたいが」

「もうここまで来れば……」

と、お稲は、道しるべの石を読んで、そのまま、草の上へ、坐ってしまった。

嬰児を下ろして、かの女は、白い胸の肌をひろげた。三五兵衛は、明らさまな陽の下で、女の黒い乳くびと、それをむさぼるように吸う嬰児の顔を、ちらと見て、

「焦れってえ、旅だなあ」

と、暗くなった。

背なか合せに、どっさりと、草に腰をおろして、

「こんな調子じゃ、いつ江戸表へ着くことやら」

「人のせいみたい」

と、お稲は、恨むような眼ざしで、

「これは、誰の子ですえ?」

「知れたことをいうな」

「自分が、無理にいうことをきかせた女房――自分が、勝手に生ませた子を邪魔にばかりしてさ――」

「まったく、邪魔だ。おれはなぜ、こんな者を、持って歩かなければならないのかと思う」

「今さら後悔したところで、二人とも、どうにもならない話でしょう。――子が生きたから、捨てようとしても、こん度は、こっちで捨てられやしないからね。一生涯、離れやしないから……」

「どうでもなれ」

三五兵衛は吐き出すようにつぶやいて、雲を見ていた。

かれは、女のことばが、いちいち、村上賛之丞のかわりになって、棘々しく、自分に、責め、逆らって来るように思われてならない。

(返り討ちだ。おれは正しく、賛之丞に、返り討ちになっている――)

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