TRENDIA CLASSIC

治郎吉格子

吉川英治

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立つ秋

湯槽のなかに眼を閉じていても、世間のうごきはおよそわかる――。ふた月も病人を装って辛抱していたこの有馬の湯治場から、世間の陽あたりへ歩き出せば、すぐにあしのつくというくらいな寸法は、なにも、気がつかずに立った治郎吉ではなかった。

素袷の肌ごこちや、女あそびを思わせる初秋の風は、やたらに、治郎吉を退屈の殻から唆った。

――で、無性に、あぶない世間が恋しくなって、有馬の槌屋を立ったのが七十日ぶりの爽やかな秋の朝で、湯治中すっかり馴染になった湯女のお仙が、彼の振分を持って、坐頭谷まで送ってくれた。

「もうこの辺で結構だ。お仙さん、また来年会おうぜ」

治郎吉がいうと、

「いえ、武庫川まで」

と、お仙は、いつまでも振分を渡したくないように抱えこんで、蛍草の咲く道をふんでいた。

「おこころざしは有難えが、そいつは、かえって名残がますというもんだ。宿でも、変に思うといけねえから、ここらで、帰った方がいいぜ」

「――だから、旅のお客は、たよりがない」

「どっちにしても、生涯、有馬にいるわけにはいかねえもの」

「わたしも、江戸へ、連れて行ってくださいな」

「じょ、じょうだんだろう」

「ほんとにさ! ね、治郎さん」

人通りが絶えていた。女は、ついと小戻りをして、治郎吉の袷の袂を、ねじきるようにつかんだ。

「……ね、治郎さん」

「よせやい」

胸へ、もってくる顔を、邪慳にかかえて、

「みッともねえ、泣くやつがあるもんか」

「わたし、行きたい」

「どこへ」

「どこへでも、治郎吉さんと、いっしょにさ」

「そんな約束じゃなかったぜ。……さ、人が通ると、評判にならあ、はやく、帰ンねえ」

「嫌! ……わたしは急に、帰るのが嫌になった。連れて行ってください、どこへでも」

「わからねえことを言っちゃ困る」

「だって、お前さんの足手まといにさえならなけれや、いいんでしょう」

「そうはゆかねえ」

嘆息のように言ったのである。

ありふれた湯女とお客の御多分なみに、ほんの、退屈まぎれな、いたずら心でした事を、軽く後悔するように。

第一、相手の女にもよる。こう、後腹を痛めるほど、値うちのあるきりょうとは、惚れられている彼の眼にも踏めていなかった。

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