TRENDIA CLASSIC

茶漬三略

吉川英治

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柾木孫平治覚え書

人々は時の天下様である太閤の氏素姓を知りたがった。羽柴筑前守秀吉あたりから後のことは、誰でも知っていたが、その以前の彼を知りたがった。

わけて、小猿とか、日吉とか呼ばれて、姓さえろくになかった時代の生い立ちを知りたがった。

けれど太閤は、自分の素姓については、生涯、人に語った例がどうもなかったようである。

強いて、訊く者があれば、

「大空に素姓はない」

といいたそうな顔していた。

またその威光を冒してまで、不しつけに訊く者もなかった。うすうすのことは誰でも察していたのである。

だから彼の祐筆や、松永貞徳なども、やむなく彼の素姓に筆のふれる時には、

秀吉公、曰く、

われ尾州の民間より出たれば、草刈るすべは知りたれど、筆とる事は得知らず、ただわが母、内裏のみづし所の下女たりしが、ある夜のゆめに幾千万の御祓箱、伊勢より播磨へさしてすき間もなく、天上を飛びゆくとみて我を懐胎しぬ――

などと書いておいた。

そんな事から、秀吉の母までが、持萩中納言の息女であったとか、彼は藪中納言保広の落胤であるとか、織田被官の足軽から帰農した百姓弥右衛門の子というのが真であるとか、噂や蔭口もまちまちであったが、それについても太閤はどちらが本当で、どっちが間違っているともいった例がない。

が――ここにただ一つ、これだけは確実に、彼の口から出て、彼が眼の前で、祐筆に書かせ、公然、四海に闡明したことばがある。

それは天正十八年に、彼が、朝鮮国王に与えた書翰で、

予、托胎ノ時ニ当リ

慈母、日輪懐中ニ入ヲ夢ム。

相士ノ曰

日光ノ及ブ所

照臨セザルハ無シト。

壮年必ズ八表ニ仁風ヲ熾ニシ

四海ニ威名ヲ蒙ル者

ソレ何ゾ疑ハン乎。

と、自己紹介をしながら、抱負をのべているのである。

結局、太閤となってからは、彼自身、

「自分は太陽の子である」

と信じて疑わなくなっていたのであろう。

けれど、大空の太陽にも、真暗な泥海時代があったように、地上の太陽の子にも、暗黒時代があったに違いない。

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