明治二十五年(1892)
八月十一日。神奈川県久良岐郡中村根岸に生る。次男。父直広は小田原藩の下士。早くに横浜へ出、開港企業家の一旗組に伍すも、性その質でなく、南太田新田の牧場と酪業経営に失敗し、一時、県庁書記、酒税官など勤めたが続かず、当時、根岸競馬場附近に住み、内外人の幼児を集めて、母と共に、寺小屋式幼稚園みたいなことをしていた。
母の出身は、千葉県佐倉で、同地の旧藩士で臼井町長をしていた山上弁三郎の四女。娘時代は、親戚先の芝新銭座の攻玉舎近藤真琴氏に預けられて、勉学教養など、同家で送った。
明治二十九年(1896) 四歳
父、横浜桟橋合資会社の起業に一両年奔命、家も山手町横浜植木商会の園内に移転。この年、母に伴われて祖父山上家に遊び、帰途新橋駅で母が切符を求めるを待つ間に、土産物合財袋などをみな盗られ、巡査や人だかりの中で大いに泣く。
明治三十年(1897) 五歳
巌谷小波の「世界お伽ばなし」などそろそろ見初める。母が灯下に針仕事しながら読書話しをする感化をうく。この年の夏、自分に母ちがいの兄があったのを初めて知る。学帽白ガスリの青年が突然訪ねて、父、会社より急に帰宅、父子ハンケチで眼を拭う状を童心につよく印象づけられた。異母兄政広は、小田原の藩医綾部家に養子入籍されていたもの。医学希望で実父を頼り来るも、父に諭されて帰る。
明治三十一年(1898) 六歳
横浜市千歳町山内尋常高等小学校に入学。四季、植木商会の花園を抜けて約半里を通学する。園丁の子、市チャンと仲よしになる。市チャンと共に、南京墓や相沢の貧民窟「いろは長屋」までをよく飛びあるく。後年の作「かんかん虫は唄う」のうちにある描写はその頃の印象に依る。
明治三十二年(1899) 七歳
小学校終課後も、教室に残って、特別に英語の個人教授をうく。週二回、帰宅後も宵よりまた家の近所の岡鴻東氏の「岡塾」に通い、漢学を習ぶ。中学漢林、詩経、十八史略などこの年より九歳までつづく。